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インドは世界最大の民主主義国家
インドは「世界最大の民主主義国家」か?――競合的多党制のもとでの政党政治
2013.12.12 SYNODOS
1.インドは民主主義の国か
現在ではやや言い古された感があるが、インドについてしばしば用いられる表現のひとつに、「世界最大の民主主義国家」というものがある。
インドは民主主義国家の中で最大の人口を抱える国である、というのがその意味するところである。この表現はインド国内の報道などにも頻繁に登場しており、そこには、共産党の一党独裁国家である(すなわち、民主主義国家ではない)中国とは異なるのだというインド人の自負心や、経済的・戦略的な重要性という点で先を行く中国に対する対抗心なども見え隠れする。
https://synodos.jp/opinion/international/6345/
第1章 自由民主主義の国なのか?――「価値の共有」を問い直す
第2章 中国は脅威なのか?――「利益の共有」を問い直す
第3章 インドと距離を置く選択肢はあるか?――インドの実力を検証する
第4章 インドをどこまで取り込めるか?――考えられる3つのシナリオ
終章 「厄介な国」とどう付き合うか?
あとがき
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『インドの正体 「未来の大国」の虚と実』
伊藤融/著 中公新書ラクレ 2023年発行
「人口世界一」「IT大国」として注目され、西側と価値観を共有する「最大の民主主義国」とも礼賛されるインド。実は、事情通ほど「これほど食えない国はない」と不信感が高い。ロシアと西側との間でふらつき、カーストなど人権を侵害し、自由を弾圧する国を本当に信用していいのか? あまり報じられない陰の部分にメスを入れつつ、キレイ事抜きの実像を検証する。この「厄介な国」とどう付き合うべきか、専門家が前提から問い直す労作。
第1章 自由民主主義の国なのか?――「価値の共有」を問い直す より
世界最大の民主主義国インドへようこそ
日本とインドは、長い交流の歴史を通じて共有してきた、自由・民主主義・人権・法の支配といった普遍的な価値で結ばれ、戦略的利益を共有する「特別戦略的グローバル・パートナー」です。
(2022年3月19日『インディアン・エクスプレス紙(インド)への岸田総理大臣寄稿』)
我が国でインドとの関係の重要性が語られるとき、かならず登場するのが「基本的価値観の共有」という前提だろう。中国や北朝鮮、ロシアはどうみても独裁・権威主義体制だ。現在の韓国とは自由民主主義体制で親和性があるとしても、歴史認識ではわが国と大きな隔たりがある。こうした国々の向こう側にある大国インドは、われわれにとって理想的なパートナーのように映る。
なぜか? まずなんといっても、インドは日本同様、第2次大戦後のアジアにおいて、一党独裁や軍事政権を経験したことのない稀有な国だからである。
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アジアの一部で以前みられるような反日感情も、インドには存在しない。戦時中、日本軍はインド北東部のインパールへの侵攻を試みたものの、大失敗に終わった。結局、日本がインドを支配することはなかった。独立の父、マハトマ・ガンディーはたしかに、日本の中国支配やドイツ、イタリアとの三国同盟に疑問を投げかけた。ただそのガンディーも、ロシアに抗し、独立運動にとっての直接の敵であるイギリスと戦う、日本への期待感をのぞかせることもあった。さらにチャンドら・ボースのように、日本軍と手を携えて独立をめざすインド国民軍の動きもあった。先の大戦をめぐっては、わが国は同盟国アメリカとのあいださえ、原爆投下や東京裁判などをめぐって、歴史認識を共有できているとはいいがたい。
そう考えると、インドほど、日本にとって価値観の一致する国はないようにみえる。
ニューデリーで胸を締め付けられる
かつて社会人類学者の中根千枝が、名著『タテ社会の人間関係』のなかで看破したように、日本とインドは集団意識も対照的だ。インドの集団概念としては、なんといっても「カースト」が大きな意味をもつことは、よく知られている。
日本では、カーストといえば、司祭階級のバラモン、武士階級のクシャトリヤ、商人階級のヴァイシャ、農民・サービス階級のシュードラの4階級と、その「枠外」におかれる不可触民のダリトの身分制を指すと考えられているようだ。これはカーストにおけるヴァルナと呼ばれる仕組みだ。しかし、現実のカーストはそれだけではない。むしろ、インドの多くのひとびとが意識するカーストとは、大工とか漁師、羊飼い、洗濯人(ドービー)といったような、数千ともいわれる職業と結びついたジャーティである。婚姻も同じジャーティのなかで行われることが多く、ジャーティはインド人のカースト意識の中核にあるといってよい。
中根は、会社のような「場」への所属を重視する日本とは対照的に、インドのカーストは「資格」の一種であり、同じ「資格」をもつ者のあいだでは対等だという意識が強いと結論づけた。たしかに、研究会で若手研究者が大御所に対してモノ申す、という光景は、インドではそう珍しくない。日本であれば、「空気を読まない奴」と切り捨てられるのだろうが。どうみても、日本人とインド人のあいだには、同じ「アジア人」として括ることができないほどの違いがある。
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私が赴任して1年半ほどたったころのことだ。私の直属の上司にあたる政務班長が新たに着任してきた(ちなみにこの班長はその後、複数の国で大使を歴任された方である)。家探しや挨拶回りで外出先から帰ってきた彼は、執務室に入るなり大きなため息をついて私にこう問いかけた。「伊藤さん、この国って、ほんとうに民主主義なのかなあ?」
キャリア外交官のあまりに直截な問いに、まわりの職員からは思わず笑い声があがった。しかし、よく考えてみると、深い問いである。永田町や霞が関で語られる「民主主義国インド」と、現場の姿には相当の乖離があったのだろう。
この問いを投げられたころには、私は毎日出会う、あの老人のまなざしから自分なりの答えらしきものを感じ取っていた。私が勝手に心の底で期待していたような、社会や政治に対する憤りのようなものはそこにはなかった。それはみずからの運命を受け入れつつ、そのなかで日々を精一杯生きていこうとする姿のように思われた。
ここで、カーストについてもう少し詳しく触れるべきだろう。
よく考えてみれば、インドにおけるカーストは「生まれ」であり、ひとびとは長く、みずからの置かれたその「生まれ」を甘受して暮らしてきた。それはさまざまな矛盾を抱えた巨大な国のなかで、社会を安定化させる装置として、つまり社会秩序として機能してきたのではないか。だとすれば、現代のわれわれの目線からは、議会や政府の失政、あるいは不作為に映る貧困や差別が、インドの誇る民主主義制度と共存してきたとしても不思議はない。
長くインド政治を研究してきた広瀬祟子が指摘するように、インドでは民主主義を、政治を改善する「手段」としてとらえるよりも、それ自体を「目的」としてとらえる傾向が強かった。言い換えれば、民主主義にとって大切なのは、選挙などの手続き・制度なのであって、それさえしっかりしていれば、自由や平等が達成されたかどうかは問題にならない、という話だ。
もっとも今日では、識字率を含め、教育の進展やメディアの普及に伴って、ひとびとの意識には徐々に変化も生じている。いくつかの州においては被差別・後進カーストを基盤にした政党が台頭した。最貧困州として知られるビハール州の農村を研究した中溝和弥は、選挙によって最底辺のひとびとが政治権力を奪取する「下剋上」が起きたと論じている。インドでも、自分たちの暮らしを良くするための政治参加という考え方が広がりつつある。