じじぃの「カオス・地球_329_LIFESPAN・第9章・尊厳死・120歳まで生きる?」

日本人は何故長生きするのか

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=OzNcoENNsxQ

人生 120歳の時代


【朗報】近いうちに120歳を超える人が出る理由

2022.12.9 ダイヤモンド・オンライン
テロメア120年説の違和感と延命ドリーム
そもそもテロメアの寿命が120年だとするのは、いくつかの計算式を組み合わせて導き出された推論です。「どのくらいの速度で細胞が分裂して、1回の分裂でテロメアがどれくらい短くなるかを計算した結果が、120年になった」ということでしかないのが事実です。
ゾウとネズミと人の心拍数の話はご存じでしょうか?
https://diamond.jp/articles/-/313642

LIFESPAN(ライフスパン)―老いなき世界

【目次】
はじめに――いつまでも若々しくありたいという願い
■第1部 私たちは何を知っているのか(過去)
第1章 老化の唯一の原因――原初のサバイバル回路
第2章 弾き方を忘れたピアニスト
第3章 万人を蝕(むしば)む見えざる病気
■第2部 私たちは何を学びつつあるのか(現在)
第4章 あなたの長寿遺伝子を今すぐ働かせる方法
第5章 老化を治療する薬
第6章 若く健康な未来への躍進
第7章 医療におけるイノベーション
■第3部 私たちはどこへ行くのか(未来)
第8章 未来の世界はこうなる

第9章 私たちが築くべき未来

おわりに――世界を変える勇気をもとう

                    • -

『LIFESPAN(ライフスパン)―老いなき世界』

デビッド・A・シンクレア、マシュー・D・ラプラント/著、梶山あゆみ/訳 東洋経済新報社 2020年発行

第9章 私たちが築くべき未来 より

自ら尊厳のある死を迎えられるようにする

「医師による自殺幇助(ほうじょ)」「尊厳死」「精神的安楽死」。呼び方はどうあれ、今ある継ぎはぎだらけの法律や慣行には終止符を打たないといけない。現状では、すでに様々なかたちで苦しんでいる人が、遠くまで旅しなければ人生を穏やかに終えることができない。

2018年、著名な植物学者のデビット・グドールが104歳のときに、この壁に立ちはだかった。オーストラリアでは、医師による自殺幇助が法律で認められていない。そのためグドールは祖国を離れ、安楽死が合法化されて安全に行なわれているスイスにまで赴かなくてはならなかった。地球における最後の行為として、異郷で死ぬか犯罪を犯すかを選ばされるなんて、あってはならないことである。

したがって、健全な精神を有する41歳以上の人物であれば、自らの意思で命を終える権利を否定されてはならない(40歳頃というのは、社会からの初期投資分を返し終えた年齢と考えられる)。また、末期の診断を受けている人や、苦痛を伴う慢性疾患にかかっている人は、年齢を問わずに同じ権利が認められてしかるべきである。
    ・
ほとんど毎日のように、下手をすると日に何度も、100歳まで生きる気はないと誰かしらが私にいってくる。ましてや、それより数十年も長いのなどごめんだ、と。

「もしも100歳まで行っちゃったら撃ち殺してくれよ」
「健康で75歳まで生きるくらいがちょうどいいんじゃないかな」
「これまでさんざん我慢してきたのに、それより長く夫と一緒にいなくちゃいけないなんて、考えたくもない」。かなり著名な科学者からそういわれたこともある。

それならそれでいい。
確かに、永遠に生きたいと思う人はほとんどいないようである。最近私は、一般の市民に向けて講演をする機会があった。聴衆は全部で100人ほどで、年齢は20歳から90歳まで散らばっている。地域社会の縮図ともいえる年齢構成だ。主催者側の大事な招待客が1人遅れていたので、私は時間を潰さなくてはいけなくなった。そこで、マイクをつかむと簡単な実験を行なった。

「みなさんはどれくらい長く生きたいと思いますか?」

手をあげさせてみると、80歳で十分だと考える人が全体の3分の1を占めた。「ここには80を過ぎている方もいらっしゃるんだから、みんなその人たちに謝らなくては」。私がそう返すと、笑いが起こった。

120の声を聞きたいという人も3分の1いた。「それはいい目標ですし、けっして現実離れしているわけでもありません」。私はそう答えた。

150歳まで生きたいと答えるのは、全体の4分の1だった。「それはもはや、馬鹿げた夢ではなくなっていますよ」

「永遠に」生きたいと答えたのはわずか数人しかいなかった。
やはり最近、老化研究者の夕食会がハーバード大学で開かれたときにも、よく似た数字が得られている。不死を目指していると語った出席者はごくわずかしかいなかったのだ。

このテーマについてはこれまで何百人もの人と話をしている。不死を願う人は、死を恐れているわけではない。生を愛しすぎているのだ。家族を愛し、仕事を愛し、未来がどうなるかを是非とも見たいと思っている。

私も死が大好きというわけではない。といってもそれは、死ぬのが怖いからではない。それだけはきっぱりといえる。たとえば妻のサンドラなどは、飛行機に乗っていて乱気流の気配がしただけで腕にしがみついてくる。一方、私の脈拍は変わらない。何度も飛行機で旅をしているので機械の不具合に遭遇したことも一度や二度じゃない。だから、命の危機に直面したとき、どう反応すればいいかを知っている。飛行機が落ちれば人生が終わるだけだ。そう悟って恐怖心を手放したのは、われながら褒(ほ)めてやりたいことの1つである。

話が面白くなってくるのはここからだ。私がこのちょっとしたアンケート調査をしたあとで、いくつになっても健康でいられるとしたらどうする、と尋ねると、永遠に生きたいと思う人の数が跳ね上がるのだ。ほぼ全員がそうしたいと答える。

結局、ほとんどの人が恐れているのは命を失うことではなく、人間性を失うことなのである。
無理もない。私の妻の祖父は長いあいだ患った末に、70代前半で世を去った。最後の数年間は植物状態にあった(掛け値なしの恐ろしい運命だ)。だが、心臓ペースメーカーを装着していたために、体が死のうとするたびに電気刺激で生へと舞い戻るのである。

いっておくが、「生へ」であって「健康へ」ではない。これは大きな違いだ。
私が思うに、健康な状態なしに生だけを引き延ばそうとするのは、断じて許しがたい罪である。この点は重要だ。寿命を延ばせても、同じくらい健康寿命を長くできないのなら意味がない。前者を目指すのなら、後者も実現するのが私たちの道義的な責務である。

たいていの人と同じように、私も永遠に生きたいとは思わない。病に苦しむのを少なくして、たくさんの愛に満ちた人生を送れればそれでいいのだ、この分野で研究しているほとんどの人にしても、死をなくすために老化と闘っているわけではない。ただ、健康に生きられる時間をできるだけ長くして、今よりずっといい条件で死を迎えられるようにしたいと考えているだけである。それも、できれば自ら決める条件で、準備のできたときに、苦痛なく速やかに、だ。

その方法としては、健康寿命を延ばす治療や療法があっても、それを拒む場合もあるだろう。あるいは、それは受けたうえで、気が熟したら世を去る決断を下す選択もある。いずれにしても、与えられたものをすでに返し終えた人が、この惑星に留まりたくないと願うなら、それを阻むようなことがあってはならない。その願いを叶えてあげられる世の中を実現するために、私たちは文化・倫理・法律の面で原則を定めるプロセスを始める必要がある。