じじぃの「コネクトーム・脳細胞・不死のパラドックス!逆説の雑学」

死は、それ自体が「パラドックス」である

2022.10.18 日経BOOKプラス

●人類を突き動かす「永遠」への熱望
私たち人間は、他のあらゆる生き物同様、果てしなく生を追求するよう駆り立てられている。だが、生き物のうちで唯一私たちだけが、その追求の過程で目覚ましい文化を創出して瞠目(どうもく)すべき芸術品を生み出し、豊かな宗教伝統を育み、科学の物質的業績と知的業績を積み上げてきた。そのすべては、「不死」を手に入れるための4つの道をたどることを通して成し遂げられてきた、というのが私の主張だ。

1回目のテーマは「人は必ず死ぬ。しかし誰もが、自分の死を正しく想像できない」。
https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/082600120/082900001/

『フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する』

ミチオ・カク/著、 斉藤隆央/訳 NHK出版 2015年発行

第12章 心が物を超越する より

意識は肉体の束縛から解放されて、単独で存在できるのだろうか? われわれは死を免れない体を離れ、霊魂のように、宇宙という名の遊び場をうろつきまわれるのだろうか?

この問題は『スター・トレック』でも探られている。宇宙船エンタープライズ号のカーク船長は、惑星連邦より100万年近く進歩している超人類と遭遇した。非常に進歩した超人類は、もろくて死を免れない体を捨て去って久しく、いまやエネルギーのみとなり、脈打つ球体のなかに存在している。彼らは、はるか昔には、新鮮な空気を吸う、他人の手に触れる、肉体的な愛を禁じるといった高揚感を味わうこともできていた。リーダーであるサーゴンは、エンタープライズ号を彼らの惑星へ喜んで迎え入れた。その招きを受けたカータ船長は、彼らの文明がその気になれば、エンタープライズ号などたちどころに消してしまえることにはっきり気づかされた。

しかし、エンタープライズ号のクルーは知らなかったが、この超人類には致命的な弱点があった。いくら技術は進んでいても、彼らは何十万年ものあいだ肉体から切り離されていた。そのため、心地よい肉体の感覚を味わいたくて、再び人間に戻ることを切望していたのだ。

不死
こうした方法(人間のクローンなど)が批判されてきたのは、このプロセスで現実にその人の本当の人格や記憶がインプットされるわけではないからだ。機械に心を入れるというのをもっと忠実に実現できる手だては、コネクトーム・プロジェクトによるものである。このプロジェクトでは、前の章で紹介したとおり、ニューロン1個1個まで、脳のあらゆる神経回路を再現しようとしている[これをコネクトームと呼んでいる]。すべての記憶や人格は、もとからコネクトームに組み込まれているのだ。

コネクトーム・プロジェクトのセバスチャン・スン博士は、10万ドル以上払って自分の脳を液体窒素に入れて凍結してもらう人がいると言った。魚やカエルなど、一部の動物は、冬に氷の氷の塊のなかでカチカチに凍っても、春になって解けると元気でぴんぴんしている。これは、ブドウ糖を凍結防止剤として用い、血中の水の凝固点を変えているおかげだ。こうして、カチカチの氷に閉じ込められても血液は液体のままでいられるのである。しかし、人体でブドウ糖の濃度がこれほど高くなれば、おそらく命にかかわるので、人間の脳を液体窒素に入れて凍らせるのは怪しい試みと言える。氷の結晶ができる際に膨脹し、細胞壁が内側から敗れてしまう(さらにまた、脳細胞が死ぬと、カルシウムイオンがなだれこむので、脳細胞が膨脹してついてには破裂する)からだ。いずれにせよ、脳細胞が凍結のプロセスを生き延びることはほぼないだろう。

肉体を凍らせて細胞を破裂させるのでなく、もっと確実に不死を成し遂げる方法が、コネクトームを完成させることなのかもしれない。
このシナリオでは、医師があなたの神経細胞をすべてハードディスクに収める。つまり、あなたの魂はそのときディスク上にあり、情報と化しているのだ。その後、いつか将来、だれかがあなたのコネクトームを復活させれば、理論上は、クローンが複雑に配線されたトランジスタを用いてあなたを生き返らせることができるだろう。

コネクトーム・プロジェクトは、すでに述べたように、人間の神経結合を記録できる状況にはまだほど遠い。それでも、スンは言っている。「現在不死を追い求める人を、ばか呼ばわりしてあざ笑うべきでしょうか? それとも、彼らはいつの日か、私たちの墓を見てくすっと笑うのでしょうか?」

                  • -

じじぃの日記。

ミチオ・カク著『フューチャー・オブ・マインド』という本に、「不死」があった。

「肉体を凍らせて細胞を破裂させるのでなく、もっと確実に不死を成し遂げる方法が、コネクトームを完成させることなのかもしれない」

生と死のパラドックス

少し古い本だが、前野隆司著『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』という本を読んだ。
こんなことが書かれていた。

人生は絶望か、希望か?
では、本質的には意味のない人生を、僕たちはどう生きればいいのだろうか。以下の相反する2つの方向性があり得る。
   
  1、どうせ人生は無意味なんだから、はかなく悲しい、と絶望に向かう生き方。

  2、人生には定められた意味などないんだから、人生の足かせを取り去り、むしろ自由に人生をデザインして軽やかにのびのびと生きていこう、という希望に向かう生き方。
   
人生に意味はない。しかし、もともとあると思っていたのにないと思い知らされた場合、それはショックかもしれない。その場合、1に向かうのかもしれない。

逆に、人生に意味を求める現代の風潮にもともと疑問を感じていた方の場合、「人生に定められた意味などない」というメッセージは心地よく響くのかもしれない。また、定められた意味がないということは、自分で自分なりの意味を創造する自由があるということでもあるから、前向きな人はそこに共鳴するのかもしれない。

性格・気質の差もあるのかもしれない。もともと悲観的で神経質な人が1に向かい、楽観的で社交的な人が2に向かうのかもしれない。調査はしていないので真偽は明らかではない。しかし、鬱状態の人は、1に行きがちかもしれない。
   
とか。

今日は大谷選手のHR176号が出るんじゃないか。