じじぃの「カオス・地球_293_日本がウクライナになる日・第2章・ブダペスト覚書書」

ロシアによるウクライナ侵攻 1994年ブダペスト覚書で核兵器を放棄したウクライナの結末

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=AHTBWcWO1Qw

「存在しなかった安全」ブダペスト覚書署


「存在しなかった安全」ブダペスト覚書署名から24年

2024年4月8日 ウクルインフォルム
ウクルインフォルムは、この機能しなかった悲惨な文書に関するいくつかの事実を喚起する。
なお、ブダペスト覚書の一つの肯定的な点は、19世紀のドイツ帝国首相、オットー・フォン・ビスマルクの格言「ロシアと結ぶ合意には、そこに書かれていることに価値がない」に現代的なイメージを与えた点であろう。

・1994年12月5日、ブダペストにおいて、ウクライナアメリカ、ロシア、イギリスが安全の保証に関する覚書、いわゆる「ブダペスト覚書」に署名した。同時に、フランスと中国が、声明を出し、同様の保証を与えると発表したが、この2国は覚書に署名はしなかった。
https://www.ukrinform.jp/rubric-polytics/2595290-cun-zaishinakatta-an-quanbudapesuto-jue-shu-shu-mingkaranian.html

『日本がウクライナになる日』

河東哲夫/著 CCCメディアハウス 2022年発行

プロパガンダにだまされるな。「プーチン=悪、ゼレンスキー=善」という単純な見方でウクライナ危機の深層は分かりません。外交官・作家としてソ連・ロシア観察50年の実感から書いた、歴史・軍事・地政学に基づくロシア・ウクライナ関係の多角的分析。

第2章 どうしてこんな戦争に?――ウクライナとは、何があったのか より

プーチンウクライナを嫌う理由

プーチンウクライナを見る目には、醒めた歴史観を超えて、何か感情的なものが見られる。実はロシアとウクライナの関係は、ウクライナの独立後、まるで夫婦離婚の後さながら、どちらがいくら取るかをめぐっての、脅し合い、化かし合いの繰り返しだったのだ。それもそのはず、ウクライナソ連の中ではロシアに次いで第2位のGDPを誇り、長年中央の財政い貢献してきた。ウクライナにしてみれば、「ロシアの石油もガスも、その開発、そしてパイプラインの建設にウクライナの税金が使われている。だから……」という思いがある。

しかもウクライナ軍需産業の中心地で、ロシアが保有する最大の長距離核ミサイルSS-18を製造したのはウクライナのユジマシ社、中国の航空母艦遼寧(りょうねい)」も、もとはウクライナで建造されたソ連海軍の「ヴァリャーグ」だ。ソ連軍のヘリコプターや軍艦のエンジンもウクライナに依存し、今回の戦争であえなく燃えてしまった世界最大の輸送機「ムリーヤ」も、ウクライナの航空機メーカー「アントノフ」製造したものだ。

それもあり、ソ連時代のウクライナには多数の核ミサイルが配備されていた。だからソ連崩壊後、アメリカとロシアはしゃかりきになってウクライナなどに散らばっていた核兵器をロシア一国に集中しようとする。ウクライナはこれに散々ごねた。そのうえで、1994年12月、核兵器撤去後のウクライナの安全を保障するという趣旨の「ブダペスト覚書書」をロシア、アメリカ、イギリス、中国、フランスに署名さえ、核兵器をやっとロシアに引き渡した。今回のロシアのウクライナ攻撃は、この合意への違反である。

アメリカのネオコンに脅されて――「カラー革命」の恐怖

このヤスコ―ヴィチ(親ロシア路線をとり、2014年の政変でロシアに逃亡した元大統領)の裏切りに、ヨーロッパ並みの生活、ヨーロッパ並みの近代社会を明日にでも手に入れられるとの幻想を抱いていた、ウクライナの中間層は反発する。彼らは反ヤスコ―ヴィチ運動で立ち上がった。

もともと彼らは2005年、反政府デモでリベラル・親西側のユシェンコ大統領[第3代大統領]を政権の座につけた経験がある。これを「オレンジ革命」と言って、アメリカのネオコン連中が世界中であおった民主化運動の先駆け。その後、政権の内紛、腐敗のために、保守・親露のヤスコ―ヴィチに政権を取られていたのだが、それを親西側に取り返すチャンスというわけだ。

キエフのインテリ・中間層は2013年11月末から、連日、キエフ中心のマイダン広場で、ヤスコ―ヴィチ糾弾の集会を続けたのである。それだけならまあいいのだが、プーチン・ロシアが神経質になったのは、これにアメリカや欧州の「民主化運動」団体たちが関わっていたことだ。
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2003年にはジョージア、2004年いはウクライナ等で、選挙の開票に不正があったとして、抗議運動が盛り上がる。その力で政権交代が実現する。これを動かした野党勢力は、アメリカや欧州の「民主化支援」団体から、運動のノウハウを教わっていたし、資金面での援助も得ていたのである。

ジョージアでのレジーム・チェンジは「バラ(桃色)革命」ウクライナでのものは「オレンジ革命」と名付けられ、それゆえにロシアはこうした政権交代の策動を「カラー革命」と呼んで、毛虫のように恐れ、嫌うようになったのである。それだけ、ロシアの社会の中には不満が抱え込まれていて、外国からの策動で簡単に倒れてしまうからである。