じじぃの「冒険家・死の余白・三島由紀夫の割腹自殺!書くことの不純」

三島由紀夫 没後50年 生前最後の手紙につづられた言葉 /Mishima pondered on the Socrates’ death before Harakiri suicide.

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=gwFQw9cpl4c

三島事件 (1970年)


三島事件

ウィキペディアWikipedia) より
三島事件とは、1970年(昭和45年)11月25日に作家の三島由紀夫(本名・平岡公威)が、憲法改正のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。
三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件とも呼ばれる。

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『書くことの不純』

角幡唯介/著 中央公論新社 2024年発行

第4章 届かないものについて より

1 人生の膨脹と減退

年齢論が好きな私は、43歳が冒険家の落とし穴的年齢であることを過去に論じたことがある。

植村直己、河野兵市、星野道夫、長谷川恒男、谷口けいといった登山界、冒険界で著名な人たちがそろって43歳で命を落としている。冒険系表現者に43歳で死ぬのが多いのは――数え年の43歳は男の後厄(あとやく)とされる――、それなりに理由があって43歳が人生のある種の頂点を形成しているからだ、というのが私の持論だ。

人間を1個の生命体としてトータルに見た場合、43歳までは登り坂の局面がつづく。たしかに純粋に肉体的な強さだけでいえば20代のほうが強いだろう。だが人間の活動力というのは肉体的な力だけに還元できるものではない。精神の充実や感受性、理解力、知覚能力、経験世界の拡大、そうした諸々をくわえた人間としての総合力の観点から考えると、43歳が絶頂なのである。要するに一番デカいことができるのが43歳だ。人間は43歳までが生の膨張期である。

2 死の余白

冒険における生と死の弁証法的観点から考えると、生存している以上、納得のいくものを手にいれることは論理的にありえない。なぜなら、生きているかぎり、その生の先端の究極部分にはかならず死の余白がのこるからだ。

人間はエネルギーを糧(かて)に生命活動をつづける生き物である。だから生きている以上、死ぬまでやりきる、という境地に達することは絶対にありえない。死ぬまでやりきる燃えつきる、というのは、肉体を稼働させる全エネルギーを消尽し、そして死ぬ、ということであり、生きているという事実は、そこまで自分を追い込むことができなかったことの証となる。

生きていることは、医学的にみて死んでいないということである。生命エネルギーの全消尽ポイントであり、やりきったという意味での生の最高到達点である死。この死と、生きているという現状とのあいだには距離がある。生きている以上、死には届かない。これが死の余白である。
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生の完全燃焼ポイントとしての死、そこには生きているかぎり届かない。30年近く山や極地をさまよい、そしてわかったことは、人間の生にはかならず届かない部分がのこるということだ。

4 人間という事象の極端な事例

私は決して三島由紀夫のいい読者ではない。なぜなら、三島の文学を読む前に、すでに彼の死を知ってしまっているからである。彼の死に様は普通ではないので、どうしても文学作品のうえにその最期が覆いかぶさり、純然たる創作物として読むのがむずかしいのだ。あのような最期をむかえた人物が書いた作品として、彼の本を読んでしまうわけである。
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三島が自衛隊市ヶ谷駐屯場で自衛隊員に決起を呼びかけ割腹自殺をとげたのは、45歳のときである。もともと理解不能な死に方をした人物として、私は彼のことを不気味に感じ、漠然と遠ざけていたわけだが、裏をかえせば、それは強い関心があったということでもある。近づきすぎて、その強い放射線に曝露(ばくろ)して火傷(やけど)をおうことを怖れていた。それだけに三島の死の年齢に近づくにつれ、逆に彼はなぜあのような死に方をしたのか、その謎が大きく膨らんできた。年齢をかさねるうちに、遠ざけていた三島が勝手に近づいてきたのである。それは私に何か迫るものがあった。
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三島は人間という事象の極端な事例である。極端さを突きつめると普遍につきあたることがあるが、三島はそういう人物なので、彼の死を考えることは、生きるとは何なのかを考えるに等しい。三島関連作品群は40過ぎの私の人生のよき伴走者であり、私の読書生活のなかで今も明瞭なジャンルをかたちづくっている。

彼の本を読み進めるうちに、私のなかである仮説が浮上してきた。それは、三島の自決は、冒険家にとっての死の余白を埋める試みに等しいのではないか、というものだった。

人は生きているかぎり死の余白を埋めることはできず、生の究極の先端に到達することはできない。構造的に人の実存には絶対に届かない部分がある。死の余白を埋めることができるとすれば、それは徹底的二に生き尽くしたうえでの不可抗力的な死、つまり遭難死だけである。だから自殺は基本的には死の余白を埋める方法にはなりえない。自殺には生をあきらめるという断念の性格があり、徹底的に生を追求したうえでの死である遭難死とは、質的に対極にあるからである。

しかし三島の自決にかぎっていえば、そのかぎりではないのではないか。つまり彼の自決は、生を完全燃焼させるには死しかないと明確に意図したうえでの行為だったのではないか。

死の余白を認識したうえで、それを埋めるための死、生ききるためには死ぬしかないという変形的な遭難死。もっといえば、人間存在が発生する地点である。いわば存在のゼロポイントとでもいうべき地点をめざしての積極的な生の消尽。三島の死にはそういう特殊な性格があるように思える。

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じじぃの日記。

角幡唯介著『書くことの不純』という本に、「死の余白」というのがあった。

植村直己、河野兵市、星野道夫、長谷川恒男、谷口けいといった登山界、冒険界で著名な人たちがそろって43歳で命を落としている」

ネットで「男の厄日 43」をキーにして検索してみた。

2024年(令和6年)の厄年ですが男性は25歳、42歳、61歳、女性は19歳、33歳、37歳が本厄とされています。

「要するに一番デカいことができるのが43歳だ。人間は43歳までが生の膨張期である」

「三島が自衛隊市ヶ谷駐屯場で自衛隊員に決起を呼びかけ割腹自殺をとげたのは、45歳のときである」

「彼の本を読み進めるうちに、私のなかである仮説が浮上してきた。それは、三島の自決は、冒険家にとっての死の余白を埋める試みに等しいのではないか、というものだった」

   
三島由紀夫の言葉
「日本はなくなり、無機的なからっぽな国が残る」

それは、1970年3月15日から大阪で日本万国博覧会が開催されたことだ。万博は、1964年の東京オリンピックとともに日本の戦後復興の到達点であった。しかし、三島に言わせれば、それこそ「虚飾」にほかならなかった。そんな偽りの明るいヴィジョンなど、引き剥がしてしまわなければならない。ここに『天人五衰』のモチーフがあり、その同じ問題意識が、死をもって時代を諫(いさ)める行為の原点を形作っている。死と作品の完成は、三島にとって一体の出来事だったのである。
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00946/

今思えば、三島由紀夫は予言者だったのである。