じじぃの「人の死にざま_451_植村・直」

植村直己 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E7%9B%B4%E5%B7%B1/5554/
エベレスト山頂 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DQMA8dCxUsI&feature=related
植村直己 9/9 Samurai Explorer Naomi Uemura 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=G6jgE7AQYXQ&feature=related
植村直己 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
植村直己は、日本の男性登山家・冒険家。 兵庫県出身。 1984年に国民栄誉賞を受賞。
【経歴】
少年期より同郷の加藤文太郎(浜坂町(現在の新温泉町)出身)に憧れ、学校行事で登った蘇武岳を皮切りに但馬の嶺々への山行を始める。兵庫県立豊岡高等学校卒業後、豊岡市の新日本運輸(現在は廃業)に就職。翌1960年に明治大学農学部農産製造学科に入学、山岳部へ入部してからは登山に没頭。同じ明治大学山岳部の小林正尚のアラスカ旅行で氷河を見て来た話を聞いて、海外の山へ憧憬を抱くようになる。
1965年明治大学のゴジュンバ・カン(チョ・オユーII峰)登頂隊に途中参加、4月23日登頂を果たした。その後再びモルジヌに戻るが、黄疸で一ヶ月の闘病生活を余儀なくされた。
1966年7月モンブラン、続いて7月25日マッターホルン単独登頂に成功。10月24日アフリカ最高峰キリマンジャロの単独登頂に成功。
続いて1968年には南米最高峰のアコンカグア単独登頂に成功した。この後アマゾン川のいかだ下り6000kmの冒険を経て、北米最高峰のマッキンリー登頂を目指すが、単独登頂の許可が下りず断念。4年5ヶ月ぶりに日本に帰国する。
日本山岳会が創立65周年事業としてエベレスト登頂隊派遣を決定し、山岳部の先輩である大塚博美に誘われ植村も参加した。自己負担金を用意できなかったため荷揚げ、ルート工作要員としての参加であったが、抜群の体力等が認められ松浦輝夫とともに第1次アタック隊に選ばれ、1970年5月11日、エベレスト南東稜から登頂に成功する。しかしこの経験で、大量の隊員を荷物運びとして使いながらほんの一握りの者しか登頂できない極地法による高所登山に疑問を持った。
同年8月、エベレスト登頂の勢いを借りて再びマッキンリーに挑戦し単独登頂を成功させ、この時点で世界初の五大陸最高峰登頂者となった。
1971年初めには小西政継らの山学同志会隊に加わり、冬季のグランド・ジョラス北壁に挑み、他の隊員は凍傷に罹り手足の指を失うことになったが、植村と高久幸雄は五体満足で完登した。
1978年、ナショナルジオグラフィック協会からも資金提供を受け、犬ぞりを操って人類史上初の北極点単独行に成功、日本人として初めてナショナル・ジオグラフィック誌の表紙を飾った。同年にはグリーンランド縦断にも成功し、これらの業績から1979年、イギリス王室から優れた冒険家に贈られるバラー・イン・スポーツ章を受賞するなど世界的な名声と評価を獲得した。一方でスポンサーの電通の意向でもあったが食料やそりから犬に至るまでヘリコプターや飛行機で補給をしたことなどに対して一部で疑問と批判も出た。
北極点・グリーンランドの犬ぞリ探検成功後、植村の冒険は苦難に満ちたものとなっていく。
1980年、エベレストの厳冬期登頂を目指し植村を隊長とする日本隊が編成されるが、登攀隊員の竹中昇が事故に遭い死去。悪天候にもみまわれ、登頂は断念した。
1982年、アルゼンチン軍の協力が得られることとなり、積年の夢だった南極点単独犬ぞリ探検を計画し、南極のアルゼンチン軍基地に待機し出発を待つが、フォークランド紛争勃発によりア軍が協力を撤回し断念。
1984年2月12日、43歳の誕生日にマッキンリー世界初の厳冬期単独登頂を果たしたが、翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となった。3日後の2月16日小型飛行機がマッキンリーに行ったところ植村と思われる人物が手を振っているのが確認されたが、天候が悪く、視界も悪かったので救出することができずに見失ってしまった(最終キャンプに大量の装備が残されていたことから、誤認である可能性が高い)。その後明治大学山岳部によって2度の捜索が行なわれたが発見されることはなく、山頂付近とキャンプ跡地に残された植村の装備の一部が遺品として発見されるに留まった。やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られた。現在に至るまで遺体は発見されていない。このため、最後に植村の消息が確認された1984年2月13日が植村の命日とされた。43歳没。

                              • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
植村直己(うえむらなおみ) (1941-1984) 43歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和41年、25歳のときから5大陸の最高峰をそれぞれ単独登頂し、ついでアマゾン6000キロの筏(いかだ)下り、犬ゾリによる1万2000キロの単独北極点到達、グリーンランド3000キロ縦断等の壮挙をなしとげた植村直己は、冒険仲間が「自分の手足を食べてでも生き抜く男」と評したほどの不死身男であった。
しかし、この死を賭けた冒険を職業とする男は、平生きわめて謙虚で、
「僕は別に大そうなことは何もしていません。普通の社会人としてやっていく自信がないからこんなことをしているんです。本当は、怖くて怖くて、寒くて寒くて・・・・」
といい、また著書『北極点グリーランド単独行』の中でも、
「マイナス40度を越す激寒の中、乱氷を砕きつつ死に物狂いで前進しているとき、疲れ果てて泥のような眠りにおちて見る夢は・・・・雪のない暖かい東京の夢だった」
と、書いた。
また同書に、白熊に襲われて間一髪これを撃ち倒したときのことも記述して、
「・・・・獲物が目の前にいた。そして、もう一歩という時に、私のライフルが鳴ったのだ。彼はそういう死に方を考えていたのだろうか。あまりに突然の死である。自分で撃ち殺しておいてこんなことを言うのはおかしいが、白熊の不測の死が憐れに思えてならない。私にもいつか、このような不測の死が訪れるのだろうか」
と、書いている。
そして、昭和46年に彼はいった。
「将来を思うと、わびしく、さびしい。・・・・10年後には私は山とも冒険とも関係ない、ごく普通の生活をしているのだろう」
しかし、10年たっても彼はその「職業」から別れられなかった。13年後に、彼はアラスカのマッキンリー山で「不測の死」をとげるのである、
彼は昭和55年の冬季エベレスト登山に失敗し、57年の南極大陸犬ゾリ横断の計画は、おりからのフォークランド戦争の煽(あお)りで断念した。彼にとって、はじめての相つぐ挫折であった。
しかし、特にこの後者の計画は彼の最大の悲願で、昭和58年、彼はやがてそれを達成するためのトレーニングとして、マッキンリー冬季単独登頂を発起した。マッキンリーは、冬季ではないがすでに登頂者2000人に及び、植村自身いちど登頂したことのある山だったのである。
が、すでに40を越えた夫を案ずる妻に、彼はリュックにピッケルやアイゼンをつめこむのを隠そうとし、「犬ゾリの研修にアメリカにゆくのだ」と、ごまかそうとした。
そして、アラスカに渡った。
昭和59年2月1日、出発直前、彼はテレビ朝日のインタヴューに、「若いころは山で女房の顔が浮かぶようじゃいけないなんてホラを吹いたが、今は帰るところは女房のところしかない。自分は一人じゃない。絶対に帰ります」とジャガ芋のような童顔に白い歯を見せて照れながらに答えた。
そして、2週間分のカリブーの生肉18キロ、鯨油とビスケット少々、雪洞掘りのシャヴェルなどを積んだ小さなソリをひき、クレバスに落ちるのをふせぐための竹竿(ざお)2本を腰にさして、ひとり雪と氷の山へ上っていった。
彼はトレーニングのつもりであったかも知れないが、しかしマッキンリー山は、6194メートル、その方向はともあれ極寒のアラスカにそびえたつ山で、厳冬には氷点下3、40度、そして4、50メートルの風は珍しくない怖ろしい山であった。
12日午後6時50分(現地時間)に史上初のマッキンリー冬季単独登頂に成功したという携帯無線機による連絡があったが、それっきり連絡は絶えた。
この日は、ちょうど植村の43歳の誕生日であった。それがもう夜にはいっての時刻だと知って、妻の公子は、植村がドラマチックに、自分の誕生日のうちに登頂しようとして無理をしたのではないかと心配した。
16日に捜索機が飛んで、4200メートル付近で、下山中の植村が手をふっているのを発見したと報告したが、以後ふたたび−−そして永遠に植村の消息は絶えた。

                              • -

植村直己 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E6%A4%8D%E6%9D%91%E7%9B%B4%E5%B7%B1+%E7%94%BB%E5%83%8F&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=HJ70TJqSIo2mvQOCgOXZCA&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCgQsAQwAA