じじぃの「ナポレオンの悲劇!本当は恐ろしいほど残酷な」

Aladdin - Arabian Nights (English) 動画 YouTube
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Dancing Bettie Page 動画 YouTube
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Napoleon Bonaparte 動画 YouTube
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『優雅で残酷な悪女たち―その数奇なる生涯』 桐生操/著 大和書房 2001年発行
皇后になったハーレムの女奴隷 (一部抜粋しています)
ハーレムという言葉から、あなたはどんな光景を思い浮かべるでしょうか? けだるく官能的な音楽が流れ、濃厚な麝香の香がたちこめるエキゾチックな宮殿で、絶対権力者であるサルタンを囲むように、何百人という薄絹をまとった半裸の女たちがただその欲望に奉仕するためにだけ美を競い技を磨き、互いに嫉妬と反目のなかで時を送っている・・・・。
ヨーロッパ中の人々がハーレムに多大な興味を抱き、好奇心の虜になりましたが、その内部を正確に知る者はほとんどいませんでした。ハーレムの一切は極端な秘密のベールでおおわれていたからです。
しかしそれだからこそ、ヨーロッパ中の作家、画家、音楽家たちが想像力を働かせ、好奇心を燃やし、幸運にもハーレムに入ることができた少数の外交官や商人から漏れ聞いた噂話をもとにして、独自のハーレム像を生み出したのでしょう。
ヨーロッパで東洋ブームに一気に火をつけたのは、1704年、フランスにおける『アラビアン・ナイト』の翻訳出版でした。残酷なサルタンや、謎に満ちた宦官(かんがん)、薄幸の美女たちと魔神や空飛ぶ絨毯の話は、それまでの西洋文化のなかにはなかった神秘とエキゾチシズムに満ちており、その強力な魅力が人々を夢と憧れで満たしたのです。
当時のヨーロッパでは、文学、絵画、音楽、演劇、服装など多方面にわたって、トルコ趣味が全盛となりました。ターバン、ハーレム風のズボン、アヘン、宝石をちりなめた新月形の短剣・・・・。スエズ運河が開通し、オリエント急行がパリ・イスタンブール間を走り、東方旅行がブームとなったのも、この時期でした。
東方への憧れから、モンテスキューは、『ペルシャ人の手紙』を、ネルヴァルは『東方旅行記』を書き、ドラクロアは『アルジェの女たち』を、アングルは『グランド・オダリスク』を描きます。さらにモーツアルトは『後宮からの逃走』を、ベートーベンは『トルコ行進曲』を作曲しました。
しかし実は、これらの芸術家たちのほとんどは、一度として東洋を訪れたことがなかったのです。彼らの描いたオリエントは、あくまでも想像のなかの世界、夢と空想と憧れで人工的に色付けされた世界だったのでした。
ところが、そんな19世紀ごろ、オリエントで実際に暮らしたひとりのヨーロッパ女性がいました。それが本編の主人公、エーメ・デュブック・リベリです。かのナポレオンの妃になったジョゼフィーヌ妃の従姉にあたる女だと言えば、ああ、とうなずかれる方も多いのではないでしょうか。
それにしても、エーメほど数奇な運命に翻弄された女性は、歴史に名を残すたくさんの女性たちのなかにもまずいないでしょう。運命のいたずらから従妹のジョゼフィーヌはフランス皇后になりましたが、エーメのほうはなんと海賊にさらわれてトルコ皇帝のハーレムに送られ、女奴隷となったにもかかわらず、その後、皇帝の子を産んで、皇太后として絶大な権力をにぎることのなったのですから・・・・。
西インド諸島東部、小アンティル諸島のなかに、風光明媚なマルティニク島があります。真っ青な空の下には椰子などの熱帯植物が生い茂り、原色の極楽鳥が飛び交っています。1635年以来フランス領となっていたこの島は、バナナ、パイナップル、コーヒー、ココアなどを産し、1万5000人の住民のほかに、それを支える7万の黒人奴隷が暮らしていました。
エーメは1763年、マルティニク島の裕福な農場主の家に生まれました。先祖はフランス宮廷に仕える貴族でしたが、禁を犯して決闘で相手を殺してしまったため、マルティニク島に追放されたのです。
両親は彼女が幼いとき亡くなっていましたから、エーメは伯父の邸に引き取られ、2つ下の従妹ジョゼフィーヌと姉妹のように育てられます。2人が育ったのは、一方が海、もう一方がけわしい崖に面した、小さな教会を中心にわらぶき屋根の民家がぽつぽつと広がるトロワ・ジレという漁村でした。
照りつける太陽、咲き乱れるジャスミンブーゲンビリアの花々。真っ青な海に囲まれた南国の島で、2人の少女時代はのどかに過ぎていきます。黒人奴隷にかしずかれて水浴びしたり、花をつんで髪に飾ったり、遊びに飽きるとあたりに実る果物をとって口にしたり、あるいは木に吊るしたハンモックに横たわって何時間も昼寝をしたり・・・・。少女たちが送っていたのはそんな楽園のような生活でした。
そんなある日、エーメが10歳のころのことです。彼女はジョゼフィーヌと一緒に、村で評判の占いの老婆を訪ねたことがありました。少女らしい好奇心から、面白半分に運勢をみてもらおうとしたのです。老婆はまず、ジョゼフィーヌの手相をじっと見ていましたが、やがて、重々しくこう告げました。
「大変な運命をお持ちですね。あなたは2度結婚することになります。2度目の夫は貧弱な子男ですが、栄光に包まれ、広大な領土を手に入れます。あなたも晴れて皇后の座につきますが、後にはこれを失い、この島での平和な少女時代を懐かしみながら病死することになるでしょう」
次に老婆は同じようにエーメの手相を見つめ、彼女に向かってこう予言したのでした。
「あなたはフランスに留学します。しかしその船は航海中、イスラム教徒の海賊に襲われ、トルコ皇帝のハーレムに連れていかれます。そこで皇帝の子を産み、絶大な権力を得てトルコ宮廷に君臨することでしょう」
あまりにも奇想天外な予言に、少女らは、占いの老婆が冗談を言っているのだろうと思い込みました。まさかこんな突拍子もない予言がのちに寸分の狂いもなく実現することになろうとは、夢にも思わなかったのです。
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これが、神秘のベールに包まれたハーレムの実態でした。そんななかでエーメは最初、我が身をはかなんで1日中涙にくれていましたが、やがてどんなに泣いてもどうにもならないと悟りるようになります。ハーレムから出ることがもう2度と叶わぬ夢なら、現実の生活に少しでも幸福を見い出そうとするしかありません。涙にくれながら、エーメはけなげにそう決意したのでした。
当時のトルコ王朝では皇位継承をめぐって、陰湿な争いが起こっていました。宮廷内で権勢をふるっていたのは、黒人宦官長と、白人宦官長です。黒人宦官長はハーレム(裏御殿)を、白人宦官長はセラムリク(表御殿)を牛耳っていたのです。
そして、白人宦官長の後ろにいるのが、王子ムスタファとその生母シリア妃。黒人宦官長の後ろにいるのが、皇太子セリムとその生母コーカサス。この2人の母親たちは、隙あらばライバルの息子を亡き者にして次期皇位を手に入れようと、血みどろの陰謀を企てていたのでした。
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サルタンとの関係のなかで、エーメは1年後、晴れて金髪の王子を産むことになります。これによって帝位継承者は、まずコーカサス妃の子であるセリム、シリア妃の子であるムスタファ、そしてエーメの子であるマフムトの3人となったのです。なかでも帝位を狙うシリア妃は、帝国内で絶大な権力を持つ親衛隊と組んで、セリムとマフムトを暗殺しようと企んでいました。
別名エニ・チェリと呼ばれた親衛隊は、かっては世界にその名を轟かせた無敵軍団でした。アルバニアブルガリアなど、征服地で捕えた捕虜をイスラム教に改宗させ、いかな艱難辛苦にも耐えられるよう苛酷な訓練を施した精鋭部隊です。
17世紀以降、彼らの勢力は急に増大していました。当時すでに6人以上のサルタンが彼らによって廃位されていたことからも、その影響力がうかがえます。
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このように、それまでのトルコ皇太子の日常は悲惨なものでしたが、コーカサス妃の子であるセリム皇太子の場合は違っていました。エーメを妃としたハミト一世は彼女の西欧的発想の影響を受け、それまでのトルコの因習に批判的になっていたのです。そのためセリム皇太子に対する扱いも穏当になり、「金の籠」に入る期間を短縮した上に、かなりの自由を与えていたのでした。
セリム皇太子はすらりとした端正な顔だちの文学青年で、父の生前からひそかにエーメに思いをよせていました。セリムは母であるコーカサス妃の居室で、ときおりエーメも交えて和やかな団欒のひとときを過ごすことを何よりの楽しみとしていました。
しばらくするとコーカサス妃はさりげなく席をはずし、セリムとエーメは気ままにデートを楽しむことができました。コーカサス妃は息子がエーメに思いを寄せていることを知っていたのです。
エーメも彼を憎からず思っていたようですが、その求愛に答えたかどうかは分かりません。ただ、2人があまりにも親しいので、マフムトの本当の父親はセリム帝だなどと、不謹慎な噂を流す者もいました。
1786年にセリムはそれまで必ずしも親密ではなかったフランスのルイ十六世に対して、熱い友情を表明した親書を送っています。フランス側は突然のことに戸惑って形式的な返書を送っただけでしたが、実はこの親書はエーメ自身がセリム皇太子に教唆したものだったのです。しかしフランス側は、まさか彼女が生きていて、しかもトルコ帝妃になっているなどとは、夢にも思わなかったでしょう。
1789年にハミト一世が死ぬと、27歳の皇太子がセリム三世として即位しました。即位してからの政策も新フランス敵で、フランス将校を招聘したり、新軍にフランス式装備を与えたり、パリ駐在フランス大使を任命したりします。一方、セリムはエーメの子であるマフムトを実弟のようにかわいがり、折りあらば引き立てました。セリムにとってはマフムトが、愛しいエーメの分身のように思えたでしょう。
ところが1805年、ようやくトルコ宮廷での立場が安定してきたエーメを、強力な支援者だったセリム帝の母コーカサス妃の死という、ショッキングな事件が襲います。これに力づいた親衛隊は、トルコに野心を燃やすイギリスの援助で、セリム帝を廃してムスタファを即位させようと画策しはじめたのでした。
不安になったエーメは、フランスの援助を求めるよう、セリム帝を強く説得します。折りしも、前年ナポレオンはフランス皇帝に即位し、エーメの従妹のジョゼフィーヌが皇后になっていました。恋しい従妹の栄達は、エーメにとってもうれしいニュースでした。これを機にエーメはフランスに急接近して、危機を乗り切ろうとしたのです。
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しかしエーメが46歳、マフムトが24歳になった1809年、パリからショッキングな知らせが届きました。なんと世継ぎを産めないことを理由に、ナポレオンがジョゼフィーヌを離縁したというのです。
エーメの心は、激しい怒りに燃えました。なんという冷酷な男! これまで献身的に尽くしてきた妃を、要らなくなった玩具のように理不尽にもさっさと捨てるとは!
異郷で同じような有為転変の人生をおくるこの従妹を、エーメは妹のように思い続けていました。そんな妹を、野心のため捨て去ったナポレオンを、エーメは許すことができなかったのです。
これまでエーメは、ナポレオンの秘密の同盟者を自認してきました。が、これまで彼の成功のために注いできたのと同じだけの努力を、今日からは彼を破滅させるためだけに注ぐことを決意したのです。そうして愛する従妹ジョゼフィーヌのために復讐を・・・・。
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ナポレオンはトルコ宮廷に大使を送り、「トルコがロシアとの戦いを続行し、サルタン自ら指揮をとって10万のトルコ軍がドナウ河を渡るなら、モロドヴァ、ワラキア、クリミアを進呈しよう」と提案します。
しかしマフムトは、首を縦に振りませんでした。そしてナポレオン軍がドレスデンからロシア国境に向かった日、突然マフムトはロシア皇帝との秘密の講和条約に調印したのです。本来ならこのときこそフランスと協力して、宿敵ロシアを妥当しようとするのは筋ですが、あえて戦いから手を引き、ロシア対フランスの戦いを傍観しようとしたのです。

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どうでもいい、じじいの日記。
『優雅で残酷な悪女たち―その数奇なる生涯』という本を見ていたら「皇后になったハーレムの女奴隷」があった。
残酷な悪女とはどんな女性だったのだろう。
「真っ青な海に囲まれた南国の島で、2人の少女時代はのどかに過ぎていきます」
エーメとジョゼフィーヌは姉妹のようになかよく暮らしていました。
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「なんと世継ぎを産めないことを理由に、ナポレオンがジョゼフィーヌを離縁したというのです」
「これまで彼の成功のために注いできたのと同じだけの努力を、今日からは彼を破滅させるためだけに注ぐことを決意したのです。そうして愛する従妹ジョゼフィーヌのために復讐を」
「しかしマフムトは、首を縦に振りませんでした」
もし、フランスがトルコと同盟を結んでいたら、ナポレオンはロシアとの戦いに勝っていたかもしれない。
「歴史の影に女あり」
残酷な悪女とは「エーメ」のことだったのです。本当に残酷な女ですね?