地球を生命体のようなものだと考えるガイア理論があるなら、宇宙全体においても同じようなことが言えるのではないでしょうか?そう考えると人間は自分達が思っている以上に小さな構成単位であると言えます。
河出新書 共感革命――社交する人類の進化と未来
【目次】
序章 「共感革命」とはなにか――「言葉」のまえに「音楽」があった
第1章 「社交」する人類――踊る身体、歌うコミュニケーション
第2章 「神殿」から始まった定住――死者を悼む心
第3章 人類は森の生活を忘れない――狩猟採集民という本能
第4章 弱い種族は集団を選択した――生存戦略としての家族システム
第5章 「戦争」はなぜ生まれたか――人類進化における変異現象
第6章 「棲み分け」と多様性――今西錦司と西田幾多郎、平和への哲学
第7章 「共同体」の虚構をつくり直す――自然とつながる身体の回復
終章 人類の未来、新しい物語の始まり――「第二の遊動」時代
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『共感革命』
山極壽一/著 河出新書 2023年発行
人類は約700万年前にチンパンジーとの共通祖先から分かれ、独自の進化を遂げた。やがて言葉を獲得したことによって「認知革命」が起きたとされている。しかし、実はその前に、もっと大きな革命があった。それが「共感革命」だ。
日本人の自然観
日本の自然には「見立て」や「あいだ」の概念が織り込まれている。
例えば、里山という場所も「あいだ」の思想によって生み出されたものである。これは先ほども触れた容中律の原理に則っている。里山は山でも里でもないし、山でも里でもあるという見方ができるからだ。
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西田哲学は「場所の論理」「述語の論理」と呼ばれるが、これは「あいだ」を意味する。内側でも外側でもなく、無の場所であって、自覚する(隠れているものに気づく)場所とも言われる。
実は先ほども紹介した、ユクスキュルの「環世界」も、今西の「生活の場所」も、和辻の「風土」も、はっきりとその輪郭や境界が認知できる領域ではなく、「あいだ」として働く場所である。西田はこれを感知する日本人の情緒を、「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」と表現した。
世界の中に隠れている隠れている根源的な働きは、われわれの目や耳で一時的に捕まえて可視化できるだけなのだ。
動的なイメージから実在を認識し、その形や色が、「形や声なきところ」から湧きあがり、また去っていく遷移的な動中にあるものと見なす。日本の文化には、「情的」で「動的」な特徴を表現しているものが豊富にある。
その感性は日本の絵画にも反映されており、余白を大胆に用いた雪舟や上村松園の作品が代表的なものとして挙げられる。余白という一見無の画面に、花鳥風月や人々が行き交う世界を想像するのである。
第7章 「共同体」の虚構をつくり直す――自然とつながる身体の回復 より
崩壊する地球と人間の未来
地球は今、崩壊の危機にある。
現代は人新世(Anthropocene)という新しい時代区分に分類される。
最近地質学者たちはこの始まりを1950年代とした。人為的な活動が小惑星の衝突や火山の大噴火に匹敵するほどの影響を及ぼしている時代で、人口の急増、大都市化、工業生産物の大量生産と大量消費、二酸化炭素の増加、温暖化、海洋の酸性化、熱帯雨林の減少といった地球規模の重大な変化が起こっているからである。
21世紀になってからプラネタリーバウンダリーという考えが登場し、地球にとっての「限界値」を有する9つのうち、大気中の二酸化炭素濃度、生物多様性(種の絶滅率)、人為的に大気中から除去された窒素の量の3つが、すでに限界値を超えていると指摘されている。
2015年に開かれた気候変動枠組条約のCOP21(第21回締約国会議)では、産業革命前からの世界の平均気温上昇を「2度」に抑える協定(パリ協定)が採択された。
加えて、平均気温上昇は「1.5度」を目指すとされ、締約国は削減目標を示すことが義務付けられている。しかし、2019年12月に開かれたCOP25(第25回同会議)では具体的な削減数字を国際的に約束させることはできなかった。
なぜ、このような重大な危機に世界各国が合意して真剣に取り組めないのか。その理由は、各国の首長たちが、国際協調よりも自国の経済を優先し、国際競争力を強めて国力を強めて国力を上げなければならないと考えているからだ。
しかし、気候変動は干ばつや大雨をもたらして被害を拡大し、それが原因となって国際紛争や大量の難民を生み出している。もはや一国の政策ではどうにもならない状況にある。
この事態をもたらした根本的な要因は、個人の欲望の拡大を目指してきた資本主義優先の思考である。生物の個体数は食物連鎖によってロジスティック曲線を描くように成長する。食物が豊富にあれば急速に個体数は増加するが、やがて食物量とのバランスが取れて安定状態に達し、さらに食物が少なくなれば個体数は減少するので、ちょうどS字カーブを描くというわけだ。
この法則に反して人類が80億人を超えたのは、新たなエネルギーを手に入れて食料を増産し続けてきたからである。今から1万2000年前に農耕牧畜が始まった頃、人類の人口は500万人から800万人だった。それが農業による生産、工業革命による石炭や石油などの新しいエネルギーや、電気や化学エネルギーの利用によって生産力は大きく飛躍した。しかし、それは地球規模の破壊という結果を招いた。なぜなら資本主義は資本が拡大し続けることを目指し、そのためなら環境破壊も厭わないからである。
資本主義と距離を置く
このような現状をどうすればいいのだろうか。
私はまず、資本主義の基になっている還元主義的な考えを改めるべきだと思う。それには人と人、人と自然のつながりを再認識することが必要だ。これまで私たちは自然から距離を置き、自然を操作可能なものとして搾取し、利用してきた。果ては人間自身も、自分の臓器や心までも改造しようとしてきた。
その際、私たちがとった方法は、対象を分類して部分別に切り分け、それらを徹底的に分析してそれぞれの機能を高め、ある目的のために統一して機能を発揮させるように仕向けることだった。しかし、これまで見てきたように、自然も人も部分に切り分けられるものではなく、すべてがつながり合って影響を与え合っていると考えるべきなのである。
前章で述べた西田と今西の生命論にしたがえば、人間も生物も環境に働きかけることによって主体性を持っている。そして、生物同士はその場を共有しつつ、直観を用いて認め合い、棲み分けている。それを感じられる能力、すなわち共感力を人間は特に高めてきた。それを特定の人間に対してだけ用いるのではなく、同種の仲間、異種の生物が広く共存するコミュニティを新たに創らねばならない。
従来の資本主義と距離を置くためには、個人の欲望を野放図に拡大するのではなく、シェアの概念を普及して人々のつながりを強化することが必要になる。
個人は1人では生きられない。どんなに物質的に豊かな生活をしていても、仲間をつくれなければ、人間は幸福を感じられない。人間は物質欲求と同じくらい、いやそれ以上に、仲間からの承認欲求が強いからである。これまで人々のアイデンティティは所有物によって表現されてきたし、物のやり取りが人々をつないできた。高価な物を持つ者は社会的に高い地位にあると見なされ、自分にとって大切な物を与えることが信頼の証と思われてきた。
しかし、情報化の時代は所有が意味を持たなくなるし、物を持ち続ける必要がなくなる。物を動かすよりもシェアのほうが便利だし、そのほうがコストもかからない。
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そんな時代にどのようなコミュニティができるだろうか。
まず、情報化時代には人の動きが加速するだろう。所有物が減れば動きやすくなるし、シェアが増えれば1ヵ所に定住する必要もなくなる。
ではコミュニティもSNSを通じてつくられ、維持されるようになるのだろうか。おそらくそうはならないだろう。SNSは通信手段として利用されるだろうは、コミュニティには、「認め合いの起きる場所」が不可欠だからである。そこはインターネット上のヴァーチャルな空間ではなく、自然が豊かで多様性に富む、画一的な予想ができない場所であってほしい。