WBC2023 日本優勝
世界最高の野球選手・大谷翔平を擁した日本が世界一奪還! 激闘を制した2023年WBC
ゴジキの新・野球論
1次ラウンドを全勝で勝ち上がった日本の準々決勝、準決勝の戦いぶりを振り返っていこう。
準々決勝の相手はイタリア。この準々決勝からは負けたら終わりの戦い。そんな試合で先発の大谷翔平は初回から気迫あふれるピッチングを見せた。
初回から飛ばしていき、2回には164km/hを記録。決め球のフォークも冴えわたり、試合序盤はイタリア打線を寄せつけないピッチングを見せた。
打っては3回に2番に入る近藤健介が出塁すると、3番大谷はイタリアの極端なシフトに対し、味方を含む意表を突くセーフティバントでチャンスを広げた。
https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/4116?page=2
河出新書 共感革命――社交する人類の進化と未来
【目次】
序章 「共感革命」とはなにか――「言葉」のまえに「音楽」があった
第1章 「社交」する人類――踊る身体、歌うコミュニケーション
第2章 「神殿」から始まった定住――死者を悼む心
第3章 人類は森の生活を忘れない――狩猟採集民という本能
第4章 弱い種族は集団を選択した――生存戦略としての家族システム
第5章 「戦争」はなぜ生まれたか――人類進化における変異現象
第6章 「棲み分け」と多様性――今西錦司と西田幾多郎、平和への哲学
第7章 「共同体」の虚構をつくり直す――自然とつながる身体の回復
終章 人類の未来、新しい物語の始まり――「第二の遊動」時代
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『共感革命』
山極壽一/著 河出新書 2023年発行
人類は約700万年前にチンパンジーとの共通祖先から分かれ、独自の進化を遂げた。やがて言葉を獲得したことによって「認知革命」が起きたとされている。しかし、実はその前に、もっと大きな革命があった。それが「共感革命」だ。
第4章 弱い種族は集団を選択した――生存戦略としての家族システム より
食物の分配から生まれた平等
現代に残る狩猟採集民の社会も、徹底的な食物の分配が当たり前となって成立している。ひとりで食物を独占しない。徹底的に分ける。大きな獲物をとってきた狩人は自分の手柄を自慢にするのではなくて、むしろ控え目な態度をとって、みんなの意見を聞く。さらに自分はなにもしてこなかったと謙遜する。そうすることで、権威が生じないようにする。
このような振る舞いは、おそらく人類の祖先が森林を離れ、食物の分配を始めて以来ずっと引き継いで引き継いできたことなのではないか。まさに所有を否定する社会である。
彼らは個人所有の槍や弓は持っている。しかし狩りに出るときはわざわざ自分の狩猟道具を持たずに、人から借りて出かける。自分の狩猟道具で獲物を狩ると、結局手柄が自分のものになってしまう。そうではなく、人から借りた道具で獲った食物であれば、道具を貸してくれた人にも獲物を分配する理由が生まれる。
あらゆるものを共有する。あえてそういう立場をとるのだ。また物を与える場合も、直接自分の手からは渡さず、どこかに置くようにする。自分の権利を放棄したように見せ、誰がとってもよい形にする。また物にも自分の名前を付けない。人から人へというつながりをあえてつくらない場合もあるのだ。それは食物でも同じで、共有の場に必ず出すようにする。現代の狩猟採集民たちはそのようにして平等な社会を守っているのだ。
隠される性、人間社会のルール
性において、チンパンジーとゴリラの社会は対照的だ。チンパンジーのメスは、排卵日前後の2週間から10日間、性器の周りの性皮をピンク色に腫らす特徴を持っている。その時期には、性器が遠くから見ても顕著に目立つようになり、オスが群がってきて乱交的な交尾をする。オスが射精する時間は平均で7秒で、メスは1日に何十回もオスとの交尾を繰り返す。オスの睾丸は大きく、精子をたくさん生産できるようになっており、オスは体の力ではなく、精子で競争しているのだ。
ゴリラは全く逆で、オスの睾丸は小さく1日に3回ほどしか交尾しない。またメスに性皮を腫らす特徴はなく、メスが誘わなければ発情しているかどうかもオスにはわからない。
ゴリラの群れはだいたい1頭のオスに3、4頭のメスで構成される。排卵日に合わせてメスが発情し、オスを誘うことで交尾が起こる。また集団間でオス同士が張り合うことによって物理的に乱交、乱婚を防ぐ。ゴリラは一夫多妻の家族のような群れに別のオスが入って混乱しないよう、群れの独立性を保証することが必要になったと考えられる。
このように、ゴリラやチンパンジーを始め人間以外の霊長類は、交尾のタイプは違うものの、性交渉はみんなが集まって見ている前で行うことが常識になっている。
一方、人類には霊長類の食と性におけるこの公共性を逆転させるという現象が起こった。霊長類は食事の際、基本的に個人単位で、争いのないよう仲間とは離れる。また、自分の食べるものを仲間と分けあうこともあまりない。分散して互いに競合しないようにして、積極的な食物の分配はあまりしないのだ。
しかし人間は食べる行為を隠さなかった。食べている場所も秘密にしないし、分配も公開する。しかし性は隠し、プライベートなものにしたのである。
類人猿にとって性は隠すものではなかった。交尾にしても、仲間は近くで見ることができた。
人類の場合、家族の性の独立を保持しなければ、家族と複数の家族による共同体という重層構造の社会がつくれなかったのだろう。そしてインセストタブーも生まれた。血縁関係にあるものは性行為をしてはいけないというルールだ。
タブーはさらに飛躍し、たとえ血縁関係になくても親子の契約を結んだもの同士は、性交渉をしてはいけないことにした。性行為は隠れた場所で行うようになり、公の場所では性器も見せなくなった。性の文化が生まれたのである。
自己犠牲の精神という美徳
人間は動物を助けることに熱心な傾向がある。
羽が折れて飛べなくなった鳥や、巣から落ちてもがいているひな鳥を見つけると、手当てをして餌をやり、飛べるようになるまで面倒を見る。そのような丁重な手当てができないときでも、傷ついた動物を見て、心を痛めた経験は誰しもあるはずだ。このような行為は、同情の能力があるからこそ、ペットを飼ったり、家畜の世話をしたりする中で育まれたのだろう。
人間は共感や同情の対象を他の種に広げ、仲間に対してはさらに強めたところに特徴がある。仲間が危機に陥れば、助けるために自分の命を懸けることさえある。しかも自分の子どもや近親者だけでなく、血縁関係のない赤の他人さえ、身を挺(てい)して助けようとする。
このような自己犠牲の精神には、人間が社会力を強め、これまで地球上の新しい環境に進出するたびに危機を乗り越えてきた原動力があるように感じる。
同じ種族を助けるために、自分の命を犠牲にするという、ほかの動物たちから見たらとんでもない行為が、なぜ人間にとっては美徳となったのか。
19世紀に進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンも、人類の自己犠牲的な行動の解釈には困惑した。自然選択を経て生き残るためには、自分の遺伝子を受け継ぐ子孫を少しでも多く残す必要があるし、子孫を残す前に死んでしまったら遺伝子を残せない。
ダーウィンはそれを、動物に共通する社会本能として解釈した。人間以外の動物にも、自分が心地よく暮らすために仲間を助けようとする動きが見られる。人間はそのような感情を言葉によって意味づけ、良心を発達させたと考えたのだ。
しかし、自己犠牲の精神は、言葉の出現以前に確立されていたのではないかと私は考えている。人類が森を出て草原へと進出したのも、アフリカ大陸から多様な環境へ進出し始めたのも、まだ言葉を話していない時代だった。
自己犠牲は道徳というより、美徳と呼ぶにふさわしい行為だ。
人間には顔を赤らめる性質がある。失敗したときや対人関係で不安を感じたときに起こる現象だ。これは生理現象だから、意図的には止められない。人間は誰でも赤面する性質を持っているが、この現象は類人猿には見られない。ということは、赤面は人間の祖先が独自の進化の中で身に付けた特徴だといえるだろう。人間は仲間からの評価を常に気にかけ、期待にそぐわない行為を控える傾向がある。その行動基準がやがて集団の中で道徳になる。だから道徳は集団によって様々な違いがあり、道徳に反した場合のペナルティも様々だ。ペナルティができる以前の、恥を感じて赤面する気持ちこそが、すべての人間に共通する自然の道徳といえる。