じじぃの「警戒心と不安・強制収容所・不気味に過ぎる時間?錯覚の雑学」

Auschwitz Concentration Camp Gas Chamber

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=WkMT2h-IJzY


名著14 フランクル『夜と霧』:100分 de 名著 「<全4回>第2回 どんな人生にも意味がある」

2012年8月8日 NHK Eテレより
【司会】伊集院光伊東敏恵 【語り】小野卓司 【ゲスト講師】 諸富祥彦(明治大学文学部教授)

なぜ、生きるのか?

その意味を見失ったとき、人は心を病むのでしょう。大切なのは自分が生きる意味を知ることだ。患者が生きる意味を見出すことを治療の中心に置いてきたフランクル
1942年、強制収容所に入れられたとき、こう自分に言い聞かせたといいます。
「お前はこれまで、人生には意味があると語ってきた。それはどんな状況でも失われないと言ってきたじゃないか。さあ、ヴィクトール。自分でそれを証明する番だ」
こうしてフランクル強制収容所の絶望のなかでも生きる意味を探し続けていったのです。
いつ解放されるともしれず、重労働を課せられる毎日。力尽きてしまう人。生きることを諦めてしまう人が続出するなかで、2人の男が悲愴な決意でフランクルを尋ねました。彼らはフランクルに言いました。
「もはや、人生から何ものも期待できない」
死にたいと訴える2人に対して、フランクルはある言葉をかけます。その言葉で彼らは自殺を思いとどまりました。それは一体、どんな言葉だったのでしょうか?
伊東、「伊集院さんだったら、なんと言葉をかけますか?」
伊集院、「その場で言われたら、そうだな、とか言ってしまいそうだ。まあ、寝ろとか。疲れているんだと」
もはや人生に何の期待もできないと語る2人に対して、フランクルの言った言葉は、
「それでも『人生』はあなた方からあるものを期待しています」
すぐにはその言葉の意味が分からず、戸惑う2人に、フランクルはさらに言いました。
「あなたたちを待っている何かがあるはずです。それが何か、考えてください」
すると1人の男があることに思い当たりました。
男の頭の中に、家族3人の写真が浮かんでいる画像が出てきた。
待っている、愛してやまない子どもが外国で私を待っている・・・。
もう1人の男の中の頭に論文を書いている自分が浮かんでいる画像が出てきた。
そうだ。科学の研究論文をまだ書き終えていない。この仕事が私を待っている・・・。
フランクルは2人が待っているものこそが、生きる意味だと気付かせました。こうして彼らは自殺を思いとどまったのです。

「人生から何を期待できるかではなく、人生が何を期待しているか」
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/14_frankl/index.html

『恐怖の正体―トラウマ・恐怖症からホラーまで』

春日武彦/著 中公新書 2023年発行

第1章 恐怖の生々しさと定義について より

警戒心、不安

一般的に、不安はそれをもたらすものの正体が曖昧である。他方、恐怖は正体が明確化して棄権やダメージが予測されるけれども、逃げたり逆に立ち向かうのが困難な際に生じる感覚だろう。いずれにせよ、無力感やもどかしさが大きな要素を占める。

あらためて恐怖を定義する

①危機感、②不条理感、③精神的視野狭窄――これら3つが組み合わされることによって立ち上がる圧倒的な感情が、恐怖という体験を形づくる。
    ・
なお、興味深いことに、①の「危機感」が実在していなくても、人は恐怖に駆られることがある。いわゆる恐怖症、精神科領域に属するとされる症状である。たとえば高所恐怖、閉所恐怖、尖端恐怖、視線恐怖、対人恐怖、広場恐怖、自己臭恐怖、醜態恐怖、不潔恐怖、学校(職場)恐怖、巨像恐怖、人間恐怖、甲殻類恐怖など。

第3章 恐怖の真っ最中 より

慢性化する恐怖

高い場所から落下する最中に感じる恐怖ならば、その大部分は十秒を超えることすらあるまい。だが恐怖にはもっと長時間継続する種類のものもある。

たとえばアウシュビッツに収容された人たちにとって、毎日は不安と恐怖とに支配されたものだったに違いない。それでもしばらくすると感覚が麻痺してきたり、自分なりに期待するや可能性を見つけ出したり、他者と触れ合うことで心を落ち着かせることも可能になってくる。が、収容所においてそれらは所詮、焼け石に水でしかなかっただろう。

ヴィクトール・フランクル (1905~1997)が強制収容所の体験を書き綴った『夜と霧』には、収容所内での時間感覚について述べられた箇所がある。 池田香代子による新訳(みすず書房)から引用する。

  収容所の話に戻ろう。そこでは、たとえば1日のようなわりと小さな時間単位が、まさに無限に続くかと思われる。しかも1日は、権力をかさにきたいやがらせにびっしりと埋めつくされているのだ。ところがもう少し大きな時間単位、たとえば週となると、判で捺(お)したような日々の連続なのに、薄気味悪いほどすみやかに過ぎ去るように感じられた。わたしが、収容所の1日は1週間より長い、というと、収容所袴は一様にうなずいてくれたものだ。ことほどさように、収容所での不気味な時間感覚は矛盾に満ちたものだった。

収容所の1日には目的も目標もない。ろくでもないことは起きる可能性が高いが、明るい見通しなんか「ほぼ」ない。無力感ばかりが幅を利かせている。びくびくしながら過ごす1日は、まさに絶望によって引き延ばされた長い1日なのだろう。でもそんな日々を振り返ってみれば、どの1日も大同小異である。区別なんかつかない。厚みがないだから回顧すれば日々は圧縮されて1週間は短く感じられる。

リアルタイムで対峙している恐怖は、それが瞬時であろうと長時間にわたろうとも実際よりも長く体験され、しかし後になって振り返ればその長い時間はちっぽけでわずかな時間であったと思えてしまう。そうした一種の呆気なさは、何だか馬鹿にされているような気すらしてしまう。わたしは神を信じているわけではないが、恐怖という体験を通じて、造物主は人間を弄びたがる性癖があるなあと憮然(ぶぜん)とせずにはいられない。

死刑囚はどうだろうか。

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どうでもいい、じじぃの日記。

慢性化する恐怖

この本では、慢性化する恐怖の例として、アウシュビッツに収容された人々のことと、死刑囚のことが書かれている。

どちらも、明るい見通しがない無力感の日々が続く。

先日、テレビでこの物価高で高齢者はどうしているか、という番組を見た。

「ピンピンコロリで早くあの世に行きたい」

というのが、3割近くあった。

私は糖尿病持ちだ。

糖尿病が悪化すると、慢性腎不全になって、慢性腎不全 → 人工透析というケースに進むことがある。

まあ、慢性金欠病も恐いけど、慢性腎臓病も恐いなあ。
トホホのホ。