じじぃの「カオス・地球_55_時間の終わりまで・存在の軽さ」

The Year Earth Changed - Official Trailer | Apple TV+

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XswV_yqPq28


What would you do if you had one year left to live?

October 24, 2014 JC Morrows
https://jcmorrows.com/2014/10/24/what-would-you-do-if-you-had-one-year-left-to-live/

講談社 『時間の終わりまで』

【目次】
はじめに
第1章 永遠の魅惑――始まり、終わり、そしてその先にあるもの
第2章 時間を語る言葉――過去、未来、そして変化
第3章 宇宙の始まりとエントロピー――宇宙創造から構造形成へ
第4章 情報と生命力――構造から生命へ
第5章 粒子と意識――生命から心へ
第6章 言語と物語――心から想像力へ
第7章 脳と信念――想像力から聖なるものへ
第8章 本能と創造性――聖なるものから崇高なるものへ
第9章 生命と心の終焉――宇宙の時間スケール
第10章 時間の黄昏――量子、確率、永遠

第11章 存在の尊さ――心、物質、意味

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『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』

ブライアン・グリーン/著、青木薫/訳 講談社 2023年発行

第11章 存在の尊さ――心、物質、意味 より

受け継ぐ者たちのいない世界

だいぶ前に、小惑星が接近して地球がまもなく破壊されるということに、登場人物たちの一部が気づくという筋立ての芝居がオフブロードウェイにかかったときのこと、その舞台のトークバック[上演後のパネルディスカッション]に出てほしいという依頼を受けた。討論の相手は、私の兄だった――一方は科学、途方は宗教という、別々の、しかしともにこのテーマに関係する道を歩んできた兄と弟から、世界の終わりに関するコメントをもらえれば、観客は喜ぶだろうと制作陣は考えたらしかった。率直に言って、私はそれまでこの問題について考えたことはなかったし、当時の私は今よりずっと、議論する相手の論調に引っ張られやすかった。兄が霊的世界にどんどん話を持っていくにつれ、私はますます無遠慮であけすけになっていった。「地球はごくありふれた銀河の片隅にある、とくだん変わったところのない恒星の周囲をめぐる、ごく平凡な惑星なのです。もしも小惑星のせいで、地球が太陽をめぐる軌道から放り出されたしても、宇宙は気にも留めないでしょう。大きな枠組みで見れば、大したことではないんです」。
そんなにべもない私の発言を歓迎する人たちもいた。思うにそういう人たちは、私の中に、勇気を持って現実を直視する真面目な懐疑主義者を見出したのだろう。しかし、悔やまれることに、私のそういう言い方を、独善亭で鼻持ちならないと感じた人たちもいた。少なくとも、ひとりの観衆はそうだった。年配の女性が、人類という種にいつまでも存在していてほしいという、彼女が言うところの「誰も持つ本質的な欲求」を乱暴に踏みつけにしているとして、私をたしなめたのだ。
そして彼女は、私にこう問いかけた。

「あなたにとって、余命1年と宣告されるのと、地球はあと1年で破壊されるのとでは、どっちがショックですか?」。

そのとき私は、どちらがより身体的苦痛が大きいかによる、といった上すべりな返答をしたのだったが、その後じっくり考えるにつれ、この問いは思いもよらず啓発的であることに気がついた。自分の死期をあらかじめ知ることは、人にさまざまな影響を及ぼす。人はそれを知って、ものごとの優先順位を再考したり、展望を求めたり、後悔の念に苛まれたり、パニックを起こしたり、達観したり、直観的に真実を把握したりするだろう。地球最後の日を知ったとしても、私の反応はそのうちのどれかになるのだろうと思っていた。ところが、地球と全人類が一掃されるとなると、私は自分が死ぬ場合とはまったく違った反応をしそうだった。その知らせは、いっさいを無意味にしてしまいそうに思われたのだ。

自分自身が死ぬのであれば、むしろテンションが上がり、退屈な日常に埋もれがちなひとときにも意味を与えようとするかもしれない。ところが、全人類の終わりとなると、何もかもが無駄に思えそうだった。地球と全人類は消滅するとわかっても、私はまだ毎朝ベッドから起き上がって、物理学の研究を続けたいと思うだろうか?
やり慣れたことをやる安心感から、研究を続けるかもしれないが、今日の発見の上に、さらに仕事を積み上げてくれる人はもういないとなれば、知識を進展さえたいという気持ちはしぼんでしまいそうだ。私は執筆中の本を書き上げるだろうか? 未完成なものを完成させることの満足感から執筆に取り組むかもしれないが、完成した作品を読む人がひとりもいないとすれば、モチベーションを維持できるとは思えなかった。私は子どもたちを学校に送り出すだろうか? 普段の生活をすることの安心感から送り出すかもしれないが、未来がないというのに、子どもたちは何に備えて学ぶというのだろう?

私は、自分の死期を知ったときに示すであろう反応との、この違いに驚かされた。一方の日付を知ることは、生命の価値に対していっそう意識的になりそうだったのに対し、途方の日付を知ることは、生命の価値をすっかり奪ってしまいそうだった。それに気づいたことが、それからの年月、未来についての自分なりの考えを組み立てるうえで役立った。
若い頃、数学と物理学には時間を超越する力があることを直観的に捉えてから、長い年月が経っていた。私はすでに、未来には存在論的に重要な意味があることは信じて疑わなかった。しかし、私のその未来像は抽象的なものに留まっていた。私にとって未来は、方程式と定理と法則が住まう世界であって、岩や木や人びとの住まう場所ではなかったのだ。
私はプラトン主義者ではないが、それでも私は暗黙のうちに、数学と物理学は時間を超越していると考えていたのだ。地球最後の日のシナリオは、そんな私の考えを鍛え直し、われわれの方程式と定理と法則は、たとえ根本的な真理につながっているとしても、それら自体として価値を持つわけではないことを教えてくれた。方程式と定理と法則は、つまるところ、黒板に書きつけられ、専門雑誌や教科書に印刷された、のたくる線の集まりだ。方程式と定理と法則の価値は、それらを理解し、その価値を認める人たちに由来する。それらが持つ有用性は、それらが住まう人の心に由来するのだ。

こうして私は自分の考えを鍛えることになったが、その範囲は方程式の役割というテーマをはるかに超えて広がっていった。地球最後の日というシナリオは、われわれが価値を認めるものすべてを受けついで、そこに自分自身の像を刻み込み、さらに後世に伝えるはずの者たちが存在しない未来が、どれほど空しいものであるかを教えてくれた。個人が永遠の命を得ることは、意味を蝕むように思われるのに対し、種としての人類が存在し続けることは、意味を失わないためには必要不可欠であるように思われるのだ。
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われわれは儚い存在だ。ほんのつかの間、ここにあるだけの存在なのだ。

それでも、われわれに与えられたこの一瞬は、稀有にして驚くべきものである。そのこととに気づけば、生命の儚さと、自省的な意識の希少さを、価値と感謝のよりどころにすることができる。人は永続する遺産を求めるけれど、われわれは宇宙の年表をつぶさに見ることで、永続するものなどはないということを知った。
しかしその認識のまざまざとした鮮明さは、宇宙にある粒子の一部が他をしのいで繁栄し、自分とその住処である宇宙を探究し、自分たちはつかの間の存在であることを知り、ほんの一瞬炸裂する活動によって、美を生み出し、つながりを打ち立て、謎を解明できるということが、どれほど驚くべきことであるかを教えてくれるのだ。