バッハ
バッハとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】
2019.03.12 歴史上の人物.com
17世紀~18世紀に流行したバロック音楽を集大成した人物、
ヨハン・セバスチャン・バッハ。
西洋クラシック音楽の中でも、この時代を代表する人物として挙がるのは、
他にそう多くはいません。
https://colorfl.net/bach-matome/
講談社 『時間の終わりまで』
【目次】
はじめに
第1章 永遠の魅惑――始まり、終わり、そしてその先にあるもの
第2章 時間を語る言葉――過去、未来、そして変化
第3章 宇宙の始まりとエントロピー――宇宙創造から構造形成へ
第4章 情報と生命力――構造から生命へ
第5章 粒子と意識――生命から心へ
第6章 言語と物語――心から想像力へ
第7章 脳と信念――想像力から聖なるものへ
第8章 本能と創造性――聖なるものから崇高なるものへ
第9章 生命と心の終焉――宇宙の時間スケール
第10章 時間の黄昏――量子、確率、永遠
第11章 存在の尊さ――心、物質、意味
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第8章 本能と創造性――聖なるものから崇高なるものへ より
芸術的想像力は、生き残りに役立たないのか?
アインシュタインの相対性理論も、バッハのフーガも、生き残りのための直接必要なものではない。それでもこのふたつの仕事は、わわわれ人類が優勢になるために大きな役割を果たした能力が極限にまで高められた例なのだ。
科学的才能と、現実世界でぶつかる難問を解決する能力との関係はわかりやすいかもしれないが、それほどわかりやすくないにせよ、類推や隠喩を使って合理的に考える心、色と質感を表現する心、そしてメロディーとリズムを思い描く心は、認知作用のランドスケープを耕して豊かな実りをもたらす心なのだ。私は難しいことを言っているのではない。ただ、槍を作り、食べ物を煮炊きすることを発明し、車輪を利用し、もっと後の時代にはロ短調ミサ曲を作曲し、さらに後の時代には、硬直した空間観にひびを入れるために、われわれ人類の仲間たちが必要とした柔軟な思考と自在に働く直観を鍛錬するうえで、芸術的な心が決定的な重要な役割を果たしたのかもしれないと言っているのである。
何十万年ものあいだ続けられてきた芸術的な努力は、人間の認知作用の遊び場だったのかもしれない。その遊び場で、われわれは想像力を鍛え、イノベーションのために必要な知的能力を身につけてきたのだろう。
詩的不死性
私はときどき、こんな質問を受ける。宇宙の特徴の中で1番すごいのは何だと思いますか?
この質問に対して、ひとつに決めた答えを用意しているわけではない。相対性理論で時間が伸び縮みすることを挙げることもあれば、アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ量子エンタングルメントを挙げることもある。もっと易しいところでは、たいていの人が子どもの頃に知ることを挙げる場合もある。夜空を見上げたときにわれわれが見る星は、何千年も前の姿しているということだ。強力な望遠鏡を使えば、肉眼で見るよりずっと遠くの天体の数百万年前、あるいは数十億年前の姿が見える。そんな天文学的な光源の中には、とうの昔に死んでいるものもあるだろう。それでも、天体から出た光が今もこちらに向かっているため、われわれはそのその姿を今も見続けているのだ。光は、星が今も存在しているかのような幻影を与える。そしてそれは星だけに限ったことではない。あなたや私に当たって跳ね返った光のビームが、何にも邪魔されることなく宇宙空間を突き進んでいけば、その光は広大な空間と時間のかなたにわれわれの姿を伝えるだろう。それは、光の速度で宇宙を伝わる、詩的な不死性だ。
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そんな詩的不死性は、われわれ死すべき人間が、死を否定するときに用いる枠組みのひとつであり、自分が成し遂げた英雄的な業績や、影響力のある貢献、創造的な作品を通して、永遠の命を得ようとする。その場合、生き続ける時間のスケールには、人間中心的な心情を踏まえた調整を施し、真の永遠から、文明が続くあいだという時間にまで切り詰める必要があるだろう。そうなると、永遠の命はだいぶ目減りするが、文字通りの生物学的な不死性とは異なり、象徴的な不死性は現実だという認識により、目減りした分は相殺される。唯一の問題は、その不死性をどうやって手に入れるかだ。どの「人生は人々に記憶されるのだろう? どの作品は長持ちするのだろう? そして、自分の命と仕事が確実に不死性を得られるようにするためには、何をすればいいのだろうか?
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証拠が乏しいため、人類の遠い過去に関する分析は、情報にもとづく推測の域に留まるが、現代に生きるわれわれは、死と永遠について深く考察した作品に次から次へと出会う。
ウォルト・ホイットマンは、死を「いっさいの終わり」と位置づけることの耐え難さについて深く考察した。「君は死のことを考えているのか? それをするぐらいなら、私は今すぐ死んだほうがましだ/気持ちよく歩きながら、無に帰するそのとき近づいていけると思うか?……/誰がなんと言おうと、私は思う、重要なのは永遠の命なのだと!」。
ウィリアム・バトラー・イェイツにとって、古代都市ビザンティウムは、死にゆく体と人間的な心配事から解放されて、時間のない世界へと旅立つことを許される、人生の目的地だった。「私の心を焼き尽くしてくれ。心は欲望に懊悩する/死にかけたこの生き物に縛りつけられたまま/自分が何者かもわからずにいる。この私を鍛え直してほしい、そして、永遠の芸術品にしてほしい」。
ハーマン・メルヴィルは、波が鎮まっているように見えるときでさえ、死はわれわれとともに航海しているのだと述べた。「人はみな、絞首刑の縄策(じょうさく)を首に巻きつけて生まれてくる。しかし、死すべき者たちが、黙したままうねにそこに存在していた命の危険に気づくのは、いきなりぎゅっと死の手に締め上げられたときなのだ」。
エドガー・アラン・ポーは、まだ生きているうちに埋葬され、棺桶の中で、迫り来る死を追い払おうと躍起になる被害者に声を与えて、死の否定を文学的極限に至らせた。「私は恐怖のあまり金切り声を上げた。両脚の太ももに爪を突き立てて、太ももを傷つかた。その傷から流れ出た血が、棺桶を赤く染める。私を閉じ込めている監獄のうちでも木でできた部分を、気が狂ったように引っかいた。指は傷だらけになり、爪はぎりぎりまで磨り減った。じきに私は力尽きて、動かなくなっていく」。
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永遠に対する態度には、これだけ大きな幅がある。永遠に憧れをに抱く者もあれば、永遠なんてくだらないと思う者もいる。その幅の大きさが、ある重要なことを教えてくれる。
すなわち、永遠という概念に生き生きと向き合う芸術を駆動してきたのは、人間に割り当てられた時間は有限だという、われわれひとりひとりの気づきだということだ。「吟味された生は、死を吟味する」[いかに生きるかを考え抜くことは、いかに死ぬかを考え抜くことだ]。そして、ある人たちにとって死を吟味するということは、死が占めている支配的な立場に疑問を突きつけ、死に与えられた高い地位に疑いをかけ、死の手が及ばない世界を魔法のように出現させる想像力を解き放つことなのだ。
研究者たちが、芸術は進化に役立つとか、社会を団結させるとか、イノベーションを打ち出すために必要だとか、人間を駆動する重要な力の万神殿に祭られているなどと、どれほど力をこめて論じようと、芸術は、われわれがもっとも重要だとみなすこと――生と死、有限と無限もそこに含まれる――に表現を与える、もっとも喚起力のある手段なのである。