じじぃの「カオス・地球_46_時間の終わりまで・宗教の始まり・ユダヤ教」

「タルムード」の教えを、どこよりもわかりやすく解説


ユダヤ人成功の秘訣「タルムード」の教えを、どこよりもわかりやすく解説

2023年3月1日 いちもくサン
ユダヤ人と聞くと、あなたはどんなイメージを抱きますか?
ユダヤ人は、地球上に約1,500万人しか存在していません。
地球の人口の、わずか0.2%です。

それにもかかわらず、歴代のノーベル賞受賞者の4割はユダヤ人が占め、さらに世界のお金持ちの35%を占めていると言われています。

アインシュタインピカソマーク・ザッカーバーグラリー・ペイジなど、有名な科学者や芸術家、富豪にユダヤ人が多いのをご存じの人も多いはず。

なぜこれほどまでに、優秀な人材を輩出できるのでしょうか?
その理由は、ユダヤ人が幼い頃から学び親しんできた「タルムード」にあるのかもしれません。
https://ichimokusan.info/talmud/

講談社 『時間の終わりまで』

【目次】
はじめに
第1章 永遠の魅惑――始まり、終わり、そしてその先にあるもの
第2章 時間を語る言葉――過去、未来、そして変化
第3章 宇宙の始まりとエントロピー――宇宙創造から構造形成へ
第4章 情報と生命力――構造から生命へ
第5章 粒子と意識――生命から心へ
第6章 言語と物語――心から想像力へ

第7章 脳と信念――想像力から聖なるものへ

第8章 本能と創造性――聖なるものから崇高なるものへ
第9章 生命と心の終焉――宇宙の時間スケール
第10章 時間の黄昏――量子、確率、永遠
第11章 存在の尊さ――心、物質、意味

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『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』

ブライアン・グリーン/著、青木薫/訳 講談社 2023年発行

第7章 脳と信念――想像力から聖なるものへ より

宗教の始まり

紀元前1000年紀に、インド、中国、ユダヤ[今日のパレスチナ南部]にわたる地域で、粘り強くて創意豊かな思想家たちが、それまで語り継がれてきた神話と生き方の見直しお行った。それに続いてさまざまな進展が起こったが、そのひとつが、哲学者カール・ヤスパースの言う、「今も人類とともにある、世界宗教の始まり」である。今日の学者たちは、さまざまな発展のひとつひとつについて、それが宗教の始まりにどの程度関与したかをめぐって論争しているが、結果として起こったことについては意見が一致する。宗教体系は、追随者たちが物語を書き留め、洞察の中でもとくに質の高いものを選び出し、聖別された預言者によって信者たちに伝えられ、世代から世代へと口承されてきた教えを整備して聖典とするうちに、徐々に組織化されていったということだ。その結果おして生まれたテクストの内容は当然ながらさまざまだが、どのテクストにも共通しているのが、本書の探求の旅をこれまで導いてきた問いに強い関心があることだ。
われわれはどこから来たのだろうか? そしてどこに向かっているのだろうか?

もっとも初期に書き残された記録の中に、インド亜大陸サンスクリット語で綴られたヴェーダがある。その一部は、紀元前1500年という古い時代に書かれたものだ。紀元前8世紀以降に書かれたとみられる注釈の集成であるウパニシャッドとともに、ヴェーダはのちにヒンズー教聖典を構成することになる膨大な数の、韻文、マントラ、散文の集成である。今日ヒンズー教を実践する人たちは、地球の住人の7人に1人にあたる11億人にのぼる。私は、10歳にもならない子ども時代に、ヴェーダウパニシャッドに個人的な接触を持つことになった。
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ヒンズー教と仏教は、日常の知覚が与える幻影を超える実在を探求するが、過去100年間に起こった驚異的な科学的進展の多くもまた、同じことをやろうとしてきた。そのため、これらの宗教と現代物理学にはつながりがあると考え、そのつながりを明らかにすると称する記事や本を書いたり、映画を作ったりする人たちがいる。これらの宗教と科学にはものの見方や用いる言葉に似たところがあるのは確かだが、私は、あいまいなメタファーとしての共鳴以上のものに出会ったことがない。一般向けの本の中で現代物理学について語るときには、私もほかの著者たちも、ハードルを下げることを第1に考えて、数学はあまり使わないようにするのが普通だ。
しかし数学は、決定的に重要なかがくの拠り所なのである。どれだけ注意深く選ばれ、練り上げられた表現でも、言葉は方程式を翻訳したものでしかない。そんな翻訳を、他の分野との接点を確立するための基礎にしたところで、そんなつながりが詩的な類似性のレベルを超えることはまずないのだ。
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仏陀がインドを放浪していたのと同じ頃、ユダ王国ユダヤ人はバビロニア人にひどい仕打ちを受けて流浪の民となっていた。ユダヤ人の指導者たちは、民族のアイデンティティーを成文化しようとバラバラだった文書を寄せ集め、口承の歴史を聞き取ったものを監修して、初期のヘブライ語聖書を作った――その書物は発展を続けて、アブラハムの宗教の聖典となり、今日では地球上の人口の2人に1人を超える40億人ほどの人たちに実践されている。ユダヤ教キリスト教イスラム教の神は、全知全能にしていたるところに偏在し、あらゆるものを作った唯一の創造者だ――全知全能の創造者というのは、宗教について語られるときに、聖俗を問わず世界中の多くの人たちがまず思い浮かべる概念ではないだろうか。

旧約聖書には、広く知られた独特の「始まりの物語」が綴られている。実は旧約には、始まりの物語がふたつある。第1の物語は、天と地の創造に始まり、男と女を作るところで終わる、6日がかりの創造の話だ。第2の物語では、創造には1日しかかかっていない。
男のほうが早く作られて、昼寝をしているあいだに女がその場面に登場する。そのふたりから何世代も続くことになるのだが、それらの人物がどこに行き、いつ死んだかについて、旧約聖書ははっきりしたことを教えていない。よみがえりに関係する短い言及がふたつほどあるのを別にすれば、死後の生にはこだわりがないようだ。その後、ユダヤ教神秘主義者と解釈者たちは、別の世界を待つ不死の魂にまつわる考えを無数に創作したが、膨大な資料や膨大な資料や注釈と矛盾しないものはひとつとしてない。
それから500年ばかり後に、キリスト教が、地上で生きる時間をはるかに超えて同一性を保つ永遠の魂という考えに触発された教義を発展させると、ユダヤ教であいまいだった点は取り除かれていった。それから500年ほどのちに生まれたイスラム教は、同党のテーマに取り組むために、それ独自の包括的な信念体系を導入する。その信念体系は、近づきつつある最後の審判の日――そのとき死者が復活し、良き者は天上で永遠の命を与えられ、そうでなかった者は地獄に落とされて永遠に苦しむことになる――を尊ぶという点において、キリスト教の教えと調和する。

信念、信頼度、価値

「あなたは神を信じますか」と私に質問してくるほぼ全員が、量子力学に対する私の考えを問うときとまったく同じ意味で、「信じる」という言葉を使う。実は私は、このふたつの質問を立て続けに受けることがよくある。そんな質問に対し、私は信頼度という観点から話をすることが多い。量子力学に対する私の信頼度は高い。それはこの理論が、電子の磁気双極子モーメントといったこの世界の特徴を、少数点以下9桁以上の精度で予測するからだ。それに対し、神の存在に対する私の信頼度は低い。なぜなら、神の存在を支持する厳密なデータが足りないからだ、と。この例からわかるように、信頼度は、感情をまじえない、本質的にはアルゴリズムに従う証拠の検討から生じる。

実際、物理学者がデーらを解析して得られた結果を発表するときには、確立された数学的手続きを使って、信頼度を定量化している。一般に、「発見」という言葉が使われるのは、定量化した信頼度がある閾値を超えたときで、データに含まれる統計的ゆらぎのせいで誤りに導かれる確率が、350万分の1以下でなければならない(この数字は恣意的に思えるかもしれないが、統計的な分析から自然に現れるものだ)。
もちろん、信頼度がどれだけ高くても、「発見」の真正性が保証されるわけではない。
その後に行われる実験で得られたデータによって信頼度が修正されることもある。しかしその場合でも、アップデートされた信頼度の数値をはじき出すアルゴリズムは、数学が与えてくれるのだ。
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私はユダヤ人として育てられた。主な休日には家族みんなで礼拝に出かけたし、地域のヘブライ語学校にも行かされた。学校には毎年新しい生徒が入ってくるから、そのたびにヘブライ語のアルファベットからやり直すことになったため、私は教室の片隅の机にすわって静かに旧約聖書をめくっていた。
両親にはだいぶ文句を言ったが、実を言えば、サムエルやアブサロムやイシュマイルやヨブ、その他どの登場人物についての物語も面白かった。しかし長年のうちには、私はしだいに宗教と距離を取るようになった。きちんとしたかたちで宗教に関係する必要をほとんど感じなくなったのだ。その後、オックスフォード大学の大学院時代に研究をひと休みして、私はイスラエルに旅した。若いアメリカの物理学者がエルサレムお道を歩きまわっているという噂を、熱血ぎみのラビが聞きつけた。そのラビは若者の居場所を突き止めると、やはり「宇宙の起源を学んでいる」というタルムードの学者たちに取り囲ませて、ひたすらうやうやしい態度を取る20代半ばの学生を説き伏せ――というより無理やりに――、自分の寺院に来て、テフィリン[聖句箱]の儀式で用いる伝統的な革紐の装身具で両腕と額を覆うことを承知させた。
ラビにとって、この出会いはまさしく神の意志だった。学生は、信者集団に連れ戻されるべく運命づけられていたのだ。学英にしてみれば、心も決まらないまま神聖な行事に無理やり参加させられるのは気が重かった。結局、革紐を解いて寺院を出たとき、学生は終わってせいせいした気分だった。

しかし、父が亡くなったとき、ユダヤ教の教えを守るミニヤン[正式な礼拝構成人員で、13歳以上の男性10人]が、毎日我が家の居間で、カディシュ[葬儀の祈祷]を唱えてくれたことは大きな慰めになった。父は宗教的な人ではなかったけれど、何千年も昔にさかのぼる伝統に包まれ、先立つ無数の人たちにも授かられた儀式を経験していたのだ。男たちが詠唱した宗教的な文言が、どういった内容なのかは問題ではなかった。それはアラム語で、古代の音の集まりであり、韻律とリズムに刻印されたユダヤの民の詩だった。それを英語で言えばどうなるかといったことは、私はまったく興味がなかった。

何日か続いた詠唱のひととき、私にとって重要だったのは――いわば私の信念の本性は――歴史、そして人々との繋がりだった。私にとってはそれこそが、伝統の威光であり、宗教の威厳なのである。