じじぃの「デカルト・心身二元論・哲学的ゾンビ?禁断の進化史」

What is a singularity?


帯状回

(urasaki-harikyu.com/blog)

世界は計算可能か?デカルトライプニッツチューリング、ウィーナーによる「計算機」の歴史から考える

2019.11.28 WIRED.jp
現代のAIの起源をたどれば、それは計算機の発明となる。デカルトライプニッツチューリング、ウィーナーといった偉人たちはいかにして計算機にまつわる思想をつくり上げてきたのか? 独立数学者の森田真生と数学者の津田一郎が、その系譜をひも解きつつ、「世界は計算可能か?」という問いに答えた。

ところが計算にすべてを還元しようという構想が実現したことはない、と森田は指摘する。
デカルトはひとつの普遍的な方法によって、人間の認識全体を基礎づけ、確実な認識の閉じた世界をつくろうとしました。しかし、数学はデカルトが想像したよりも現実にははるかに多様に、豊かに育っていった。19世紀から20世紀にかけて再び数学の基礎づけの機運が高まりますが、数学全体の確実で揺るぎない地盤を確定しようとする試みが成就することはありませんでした。さまざまな人間の思考のなかで、数学ですらそうなのです」
https://wired.jp/series/away-from-animals-and-machines/chapter12-1/

『禁断の進化史 人類は本当に「賢い」のか 』

更科功/著 NHK出版新書 2022年発行

第2部 進化にとって意識とは何か より

第8章 不可解な脳

デカルトはどう考えたか

少し昔の話になるが、フランス生まれの哲学者であるルネ・デカルト(1596~1650)は、意識や知性を含む精神と、肉体を別々のものと考えていたようだ。

デカルトは動物を、意識のない機械のような物体と捉えていた。たとえば、心臓は熱を持っているので、血管から入ってきた血液は温められて膨脹し、その結果、心臓を膨脹させると考えた。これは心臓の説明として間違っているけれど、とにかくデカルトは、動物を熱機関のような自動機械とみなしていたわけだ(とはいえ、デカルトは犬を飼っていて、とてもかわいがっていたらしい。その犬のことも自動機械と考えていたのだろうか)。

しかし、デカルトも、人間だけは自動機械ではないと考えていた。人間は、2つの点で、他の動物とは明確に区別できるからだ。

その1つは、言語の使用だ。もちろんロボットのような自動機械にも、ある刺激を与えると言葉のような音を出すようにつくることはできる。しかし、いろいろなことを語りかけたときに、そのすべてに対して、単語を適切に配列して答えることはできない。

2つ目は、無数の適切な行動だ。ロボットのような自動機械は、決まった種類の行動に関しては、すばらしく巧みに行なうことができる。しかし、他のいろいろなことを行うことはできない。たとえば、ネジを締めるロボットは、人間よりもずっと速く正確にネジを締めることはできるけれど、2枚の紙を糊(のり)で接着することはできない。

つまりデカルトは、言語にせよ行動にせよ、無数の状況に対応するような仕組みを、1つのロボットに組み込むことはできない、と考えていたようだ。無数の状況に対応する仕組みは、当然無数にある。それらをすべてロボットに組み込んだら、ロボットは無限に大きくなってしまう。

ところが人間は、一定の大きさの体しかないのに、無数の状況に対応できる。そういう行動は、物質的な仕組みで背う鳴できない以上、非物質的なものから生じてくると考えざるをえない。それが精神である。人間は肉体のほかに精神も持っているので、たんなる自動機械ではない、とデカルトは言うのである。

体のなかのゾンビ

すべての生物に意識があるわけではない。たとえば、細菌に意識があるとは思えない。
これは直感的なイメージだけでなく、他の生物と比較することによって、ある程度は推測することができる。

私たちは人間である。そして生きている。生きているからには、体のなかで莫大な数の活動や化学反応が起きている。たとえば、心臓は、適切な速さで拍動を続けて、血液を体のすみずみまで送り届けている。その他にも、胃腸、肝臓、腎臓など、本当にいろいろな臓器がさまざまな働きをこなしている。

だからこそ、私たちは生きていくことができるのだが、これらの臓器の動きが意識に上ることはほとんどない。もし気絶して意識を失っていても、体が健康なら、これらの臓器はきちんと動き続け、私たちの生命を維持してくれる。

つまり、今さら言うまでもないかもしれないが、生きるためにはかならずしも意識は必要ないということだ。私たちの体のように複雑な構造を維持するためにも意識がいらないのであれば、細菌に意識がなくても何の不思議もないだろう。

これらの、意識の光が及ばない体内の運動は、正確には哲学的ゾンビ(たとえば、人間そっくりなアンドロイド)ではないけれど、複雑な動きをするにもかかわらず意識がない、という点では哲学的ゾンビに似ている。そして、こういうゾンビは、私たちの生命活動のほとんどを占めている。

数学にして表すことは難しいけれど、イメージとしては生命活動の99パーセント以上は、こういうゾンビが行っているのではないだろうか。生命活動のなかで、私たちの意識に上る部分は、ほんのわずかなのだ。

つまり私たちは、すばらしく有能なゾンビという召使いたちと暮らしているようなものだ。召使いたちが面倒な仕事をしてくれるおかげで、私たちはのんびりと暮らすことができるのだ。

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どうでもいい、じじぃの日記。

ドイツの研究グループは、人間の幹細胞から培養したミニ脳(脳オルカノイド)から史上初めて、2つの目を発達させることに成功した。

動物の持つ目は、脳の一部が変化して体の表面に露出することで獲得されることがわかった。

デカルト心身二元論を唱えた。
精神と身体機能を区別し、精神は脳の中心部にある「松果体」を通して精神と連絡しているという考え方である。

最近の研究で、精神と身体機能の間を制御しているのは「前帯状皮質扁桃体」部ではないかといわれている。

帯状皮質扁桃体は、血圧や心拍数の調節のような多くの自律的機能の他に、報酬予測、意思決定、共感や情動といった認知機能に関わっている。

デカルト心身二元論(精神は脳の中心部にある松果体であるとした)は、当たらずといえども遠からず、なのだ。

じじぃはウソばっかりとか。
トホホのホ。