じじぃの「歴史・思想_132_動物と機械・AI・我感じる、ゆえに我あり」

Prof Juichi Yamagiwa talks about gorillas, fatherhood and being human, Kahuzi-Biega NP, DRC..m2ts

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=I9ryxjSqHuo

Juichi Yamagiwa, primatologist and president of Kyoto University

ゴリラと生活をともにした京大総長「人間は優秀でも幸福でもない」

2019年12月30日 ライブドアニュース
AI(人工知能)は人類に何をもたらすのか。編集者の菅付雅信氏は「霊長類研究の権威、山極寿一氏は、『動物には、曖昧なものを曖昧なままで理解する“情緒”がある。
しかしAIなどの情報技術は曖昧さを排除してしまう。世界は情報だけでできているわけではないのに』と話した。私たちはAI社会の問題点を考える必要がある」という――。
https://news.livedoor.com/article/detail/17599892/

『動物と機械から離れて―AIが変える世界と人間の未来』

菅付雅信/著 新潮社 2019年発行

人間は素晴らしく、だらしなく動物である より

自ら計算する機械への信奉と恐怖

「動物には精神がないから、単なる機械である」と定義したのはデカルトだ。さらに彼は「人間には精神があるから単なる機械ではない」と言い、人間と動物の区別をその精神の有無に依るものとした。では、動物が単なる機械だとするならば、人間は複雑な機械なのだろうか。
「動物と機械における制御と通信」という挑発的な副題がついた古典的名著『サイバネティックス』[1948年]の著者、故ノーバート・ウィーナーは、コンピューター文化の生みの親のひとりだ。数学者の彼は第二次世界大戦中にアメリカ国防総省の要請を受けて、ナチス・ドイツを打ち破るため、まずはナチス爆撃機を効率よく撃ち落とす対空砲火を開発するべく、数学を軸に、脳科学、物理学、生物学の研究を一堂に集めて領域を横断した新たな学問を生み出した。それが「サイバネティックス」だ。そこでウィーナーは計算機、しかも自ら計算する機械を構想する。彼は『サイバネティックス』お中でその構想をこう述べている。
「演算の全過程を計算機の内部に置いて、データが計算機の中にはいり、計算の最終結果がとりだされりまでのあいだ、人間が介入しなくてもよいようにすること、またそのために必要な論理的判断は、計算機が自ら行なうこと」
この本が世に出されたのは、戦後すぐの1948年だ。このアメリカのウィーナーによるサイバネティックスと、イギリスの数学者アラン・チューリングによる自動計算機の発明から、コンピューターの歴史が始まったと言っていいだろう。

「我感じる、ゆえに我あり」

AIは西洋思想のひとつの到達点であると同時に、ある種の臨界点を示しているのかもしれない。
京都大学総長を務める山極寿一は自らが参加した、フランスで開催されたシンポジウムの話をしてくれた。をのシンポジウムのテーマは「Does Nature Think?」。人間は自ら時間が得る存在と言われているが、はたして自然自身は考えるのか。西洋哲学の立脚点に立てば、「自然は考える」とはみなされていない。だからこそ、いまこの問いに挑むべきだという。
デカルトは『我思う、ゆえに我あり』と言って、人間を考える主体であると定義しました。しかし、日本の今西錦司や西田幾太郎はそれが間違いであると言っています。今西は『我感じる、ゆえに我あり』だと。つまり、頭だけでなく、身体性を持って考える存在と捉えたんです。人間は頭だけでなく身体性を持って考える存在と捉えたんです。人間は頭だけでなく、身体で物事を感じ、判断することが多い。例えば人が汗をかく場合、私が暑いと思ったから汗をかくわけじゃなくて、身体が暑さに反応して汗をかくから、脳が暑いと思うわけです。人は最初に暑いと思って汗をかいているわけじゃないんです。それが生きている人間です。そこが人間とAIの違うところ、そういう身体性の重要さを、復活させなければいけないと思いますね」
デカルトと今西や西田の間のこの立脚点の違いは、客観と主観の違いとも言いかえられるかもしれない。西洋哲学では、客観が重んじられ、その典型が数学だった。
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社会の基本原理が西洋思想に基づいていることが、現在における環境破壊にも結び付いているのではないか――山極はそう考える。
「人間は環境を客観視したがゆえに、自らの手で環境をいくらでもつくり変えられると思ってしまった。それゆえに地球環境は破壊され、人間自体もその環境に侵されている。もしかすると主客を分けるという感が型は間違っていたんじゃないか。主客合一という考え方に則り、自然との調和を図るべきではないかと考えているんです」
世界的な類人猿学者として、世界各地のゴリラのコミュニティに入り、ゴリラたちと生活を共にしたことがある山極は、彼らと比較して「人間は、そんなに優秀にも往復にもなっていない」という。
「人間がゴリラやチンパンジーと比べて、脳も大きくなって優秀になったと思うかどうか。僕は人間がそんなに優秀になったとは思わない。ゴリラの方が偉大だと思える事はある。人間はゴリラの住処を遠く離れて、南極や北極にも住めるようになった。でもそれで人間は幸福になったのかと言われれば、そんなに幸福になったのかと言われれば、そんなに幸福になっていないですよ。地球の環境をダメにしてしまって、その責任を今責任を今取りきれないでいる。人間自体もそういう人為的な環境にどんどん侵されて、汚染され、いろんな薬が必要になり、どんどん精神的にも病んでいるのは、決して進化とは言えないと思いますね。それは、人間の身体を狩猟採集時代に置き去りにしたまま、知能部分だけを発達させてしまった結果だと思うんですね」