じじぃの「歴史・思想_698_NATOを知るために・核共有・拡大抑止」

ウクライナが入りたいNATOとは?【加盟国を解説】反発するロシア

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QGKC67J6Vtg


NATO「核同盟」揺らぎ 禁止条約に肯定的動き 根強い反核世論

2021年1月26日 沖縄タイムス+プラス
米国の核抑止力を根幹とする米欧の軍事同盟、北大西洋条約機構NATO)の加盟国に核兵器禁止条約に肯定的な動きが出始めている。
欧州の反核世論は根強く、NATOは22日の同条約発効に先立ち「NATOは核の同盟であり続ける」と改めて声明で反対を表明した。
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/698021

エリア・スタディーNATO北大西洋条約機構)を知るための71章

【目次】
はじめに
第1部 NATOとはどのような組織か

第2部 冷戦期の展開

第3部 冷戦の終焉
第4部 冷戦後の危機管理
第5部 冷戦後の拡大をめぐって
第6部 ウクライナ危機とNATO主要国の対応
第7部 集団防衛への回帰――今後のNATO
第8部 日本とNATO

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NATO北大西洋条約機構)を知るための71章』

広瀬佳一/編著 明石書店 2023年発行

第2部 冷戦期の展開 より

第11章 核共有とNPG――同盟と拡大抑止 【執筆者】岩間陽子(政策研究大学院大学教授)

NATOは、ヨーロッパ大陸における東側の脅威から同盟諸国を防衛するために作られた。そのNATOにとって、冷戦期間中ずっと付きまとった問題は、対峙しているワルシャワ条約機構軍の方が、通常兵器においてはるかに優勢だということであった。兵力でも戦車の数でも、当初はNATOがはるかに劣勢であり、この条件下で、どうやって領域防衛をするか、というのがNATOの課題であった。

これに対して、1953年に登場する米アイゼンハワー政権が出した結論が、いわゆる「大量報復戦略」であった。ワルシャワ条約機構軍の大規模侵攻に対しては、NATO側は戦争の早い段階で、核兵器を大量に投入して防衛する、という前提に立つことによって、戦争を抑止しようとする戦略であった。
朝鮮戦争が休戦にいたり、軍隊も国家財政も「平時」に回帰させたいという強い機運がアメリカにあり、核兵器に頼ることで兵員と予算を節約したいという動機があった。

1961年までのアイゼンハワー政権期に、核兵器に関連する諸技術が大きく進歩した。当初の核兵器は、爆撃機に乗せて、目標の上空まで行って落とすタイプであった。しかし、60年代初頭には、核兵器を目標まで運ぶ「運搬手段」が激増した。戦闘機、火砲などに加え、ミサイルの飛距離が伸び、これらに小型化された核弾道搭載が可能になった。アイゼンハワー政権は、ヨーロッパとアジアの前線に、開発されたばかりの防御用の戦術核を次々と配備していった。60年代に核兵器は、大きく2つのグループに分けられるようになった。「戦略核」と「非戦略核」(戦術核ともいう)である。
戦略核とは、敵の中枢に届くことができる核であり、60年代末には、従来の長距離爆撃機に加えて、潜水艦発射の弾道ミサイルSLBM)と、大陸間弾道弾(ICBM)が主要な運搬手段になった。これに対して「非戦略核(戦術核)」は、自国領域に迫る敵に対して、相対的に近距離で領域防御用に使うものであった。

「核共有」の話が出始めるのは、1957年10月4日のスプートニク・ショックが直接のきっかけである。ソ連が人類初の人工衛星を飛ばせてみせたこの日は、人工衛星時代、そしてICBM時代の幕開けであった。それまで線上から遠く離れていたアメリカ本土が、ソ連ICBMの射程内に入ったということであり、これによりNATOの核抑止に対する信頼が動揺した。アメリカ本土がICBMの射程内に入ったということは、西欧防衛のためにNATOが戦術核を使用すれば、アメリカ本土へのソ連ICBMによる核報復の可能性が出てきたということであった。アメリカは、自国が核攻撃を受ける危険を冒してまで、西欧防衛のために核を使うのか。スプートニクが突きつけたのは、この疑問であった。

すでに前年のスエズ危機で、アメリカに対する不信感を強めていたフランスは、ここから独自核開発の道を進みはじめた。これに対してイギリスは、数年かけて英米間の特別な関係を築いた。イギリスは、アメリカとの緊密な協力のもとに原子力潜水艦を建造し、それに搭載するポラリス・ミサイルから入手し、最終的にポラリスに乗せる核弾頭のみを自国で開発した。こうして英仏には違う枠組みながら、独自核を手に入れた。

このような事態を受けて、さらに多くの諸国が核兵器入手に走るのではないか、という懸念がNATO内でも広く持たれた。そのためには、NATOの核抑止への信頼性を回復させる必要性があった。このためにいくつかの方法が模索された。1つは戦術核に関して、戦時に遅滞なく使えるように、ヨーロッパ正面にあらかじめ「備蓄」しておく必要が主張され、そのためNATOの核備蓄制度が始められた。これはアメリカの戦術核兵器を前方に備蓄しておくものであったが、これを、戦時には同盟国も使えるようにしようという試みが始まった。

アメリカの核兵器は米国原子力法により、平時は他国に管理を移譲することは許されない。しかし、戦時になれば別であるという理解のもと、平時は同盟国がミサイルや戦闘機などの運搬手段を保持して、ダミーの弾頭で訓練し、戦時になれば米軍の核兵器を供与されて使用する、という制度が50年代後半に始まった。これが今「核共有」と呼ばれているものの起源である。ただし、当時はそのようには呼ばれていなかった。当時は、「NATO核備蓄」と呼ばれていた。

これとは別に、「戦略核」を、ヨーロッパの同盟国で共有しようという案が持ち上がった。アメリカの核が信頼できないならば、核保有国が増えるよりは、NATOの複数国で共同の核抑止力を保有する方がよい、という案であった。西ドイツは再軍備の際の欧州防衛共同体(EDC)案を彷彿とさせるが、これが多角的核戦力(MLF)と呼ばれる案になり、60年代後半までNATO諸国の間で交渉が続いた。当初案は、複数国で共同運用される潜水艦にポラリス・ミサイルを搭載するものであった。
その後、様々な案が出された。

結局MLFは実現することなく、NATOはモノとしての核兵器を共有するのではなく、核に関する情報を共有することに解決案を見出した。これが核計画グループ(NPG)であり、準備段階を経て、1966年12月に発足した。NPGの発足とMLFの断念は、核不拡散協定(NPT)の交渉と密接に関連していた。
キューバ危機を経て、米ソ間には核戦争を避けること、核保有国が増えないことは、共通の利益であるとの認識が強まった。特に西ドイツが核保有国にならないことは、ソ連や複数のワルシャワ条約機構諸国にとって強い関心事であった。このため、NPT交渉においては、既存のNATOの核精度は容認するが、共同の形であっても、核保有国が増えるような新たな制度は導入しない、核保有国はこれ以上増やさない、ということで米ソ間に領海が取りつけられた。

結果としてNATOには、情報を共有するNPGと、戦術核をヨーロッパの前線に備蓄しておき、戦時になったらそれを同盟国に使用させる核備蓄制度が残った。後者が今日NATOの「核共有」として知られている制度である。

冷戦期に多数あった運搬手段は、冷戦後は戦闘機のみに減少され、弾頭はB61のみになった。2022年現在、約100発のB61が、欧州6ヵ国の基地に備蓄されているを推定されている。実際にそれを搭載する戦闘機を運用しているのは、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギーの4ヵ国であり、トルコは弾頭を保管する基地を提供している。