The Biological Institute in Amani, German East Africa.
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Amani Research Institute
From Wikipedia
Amani Research Institute is a research institute located at Amani, in the Muheza District, on the Western Usambara Mountains of the northeastern region in present day Tanzania. The mountains form part of the Eastern Arc Mountains, which stretch from Kenya through Tanzania, and are covered by tropical cloud forests that have endured a long period of unique evolutionary endemism.
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『人間がいなくなった後の自然』
カル・フリン/著、木高恵子/訳 草思社 2023年発行
第3部:長い影 より
第9章 外来種(エイリアン)の侵略:タンザニア、アマニ
ここはタンザニア、ウサンバラ山脈の高地にあるアマ二だが、私はどこにでもいることができる。この廃墟と化した植物園は、種を世界中に運ぶ危険性について教訓を与えてくれる。アマ二はまた、別の何かをも私たちに垣間見せてくれるだろう。それは、たとえ出会うはずのない種であっても、互いに仲良くやっていけるという驚くべき能力である。新しい共存の道を見つけた彼らの成功は、私たちに希望を与えてくれる。アマ二はもちろん、世界中の多くの場所で、生態系は私たちが想像している以上に柔軟なのかもしれない。
旅する植物
アマ二帝立生物農学研究所(The Amani Biological Agricultural Institute)は、1902年に宗主国であるドイツによって設立された。試験的な樹木園に、600種以上の樹木と低木の試験植林が行なわれた。さらに2000種の植物が植えられた植物園や実験室が設けられた。その目的は、木材、石油、ゴム、繊維、果物、香辛料、コーヒーなど、当時ドイツ領だった東アフリカの粘土質の土壌と熱帯気候に適応する作物を見つけることだった。アルブレヒト・ツィンマーマン教授の指揮の下、アマ二はアフリカで最大かつ最重要な植物園に成長した。
共進化のバランス
土砂ぶりの雨が止んだとき、私は敷地内を歩き、旧帝国時代の建築物の跡を探した。ここから1番近い村で育ったアロイス・ムコンゲワが同行してくれた。ウォーキングブーツを履き、お坊ちゃん風なポロシャツを着た温厚でユーモアのある男だ。彼は外国の生物学者たちがアマ二の逃亡者たちを研究しに来たとき、案内役を買って出た人物である。
私たちは、入り口の門のそばにある古いスパイス・ガーデンを歩き回った。雑草が生い茂る中に成木の列が姿を現し、それぞれの幹にはラテン語で名前が記された金属のプレートが付され、まるで懇談会で胸につける名札のようだった。
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恐ろしいのは、外来種の侵入が、植物連鎖を乱し、土壌の化学的性質を変え、バクテリア群や地中の菌類ネットワークを破壊し、動きの鈍い在来種を駆逐し、病気を持ち込んでしまうことだ。例えば、現在イギリスで流行しているトネリコ枝枯れ病(ash dieback)は、国内のトネリコの80パーセントが枯れると予想されているが、これは輸入された木に付着して入ってきた菌類が原因である。トネリコ枝枯れ病は、比較的アジアでよく見られる菌類である。イギリスのトネリコの仲間の原産地である中国や満州のトネリコは、数千年にわたり、この菌と共生してきたため、その攻撃に耐えることができる。
このような教訓となる話は、昔々の先祖から伝わる複雑に絡み合った物語の大切さをはっきり示している。ジョン・ミューアの言葉を簡単に引くと、「自然の中のものを1つ引っ張ると、それが世界全体と結びついていることに気づく」。強く引っ張れば引っ張るほど、美しい織物全体がほどける危険性がある。
共進化とは、2つ以上の種が長い時間をかけて協調して進化することであり、ダーウィンが初めて提唱した概念である。1862年、ダーウィンはマダガスカル産のランの寄贈を受けた。そしてその「驚くべき」アングレカム・セスキペダレ(Angraecum sesquipedale)の姿に興味をそそわれた。その美しさにではなく(純白のワックスでできた星のような花は美しかったが)、「鞭(むち)のような」蜜腺が不思議だった。長さ30センチほどの細い緑色の密を溜める部分である距(きょ)が垂れ下がり、その底の数センチほどは甘い蜜で満たされていた。ダーウィンは、友人のJ・D・フッカーに宛てて、「驚いた、どんな昆虫がその密を吸うことができるというのだ」と書いている。
ダーウィンはさらに、同じくらいとんでもない長さの口吻(こうふん)を持つガの存在を予言した。花とガが、互いをますます特殊化させ、他の生物はだれもその密を吸うことができなくなったというのである。何千年もかけて繰り広げられる進化のラブストーリー、感応精神病(Folie a deux)。この説明にふさわしいガが、ダーウィンの予言から130年後の1993年、このランに受粉するのが確認された。そこに錠前があり、ここに鍵がある。うまくはまった。
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侵入生物学者は、外来種が制御不能になったときに何が起こるかについて、本当に恐ろしい事例を研究してきた。外界の進化的圧力から遮断された陸の孤島は、特に脆弱である。外敵がほとんどいない島では、在来種は油断してしまう。その結果、奇妙な生命が誕生してしまう。飛べない鳥、棘のないラズベリー、香りのないミントなど。そのようなものは、捕食者や研ぎ澄まされた生存競争の前では無力であることが証明されている。例えば、南太平洋のに浮かぶ樹木のない人里離れたゴフ島では、無害なハツカネズミが大虐殺を起こしている。19世紀に船員によって不用意に持ち込まれたハツカネズミは、捕食者のいない場所で巨大化し、ゴウワタリアホウドリを含む海鳥のひなを嗜好するようになった。自分より300倍も大きなひなを襲うのだ。毎年200万羽のひながネズミの餌食となっている。このままではゴウワタリアホウドリは絶滅してしまう。
グアムでは、ミナミオオガシラヘビが生態系全体を崩壊させるおそれがある。1940年代に偶然持ち込まれたこのヘビは、森の鳥を食べ、12種の鳥のうち10種がすでに失われ、残り2種は機能的に絶滅した。鳥が種子を蒔くことができなければ、木々も減少していく。同じ理由で、絶滅したすべての種の61パーセンチ、絶滅の危機に瀕しているすべての種の37パーセントが島を生息場所としていた在来種である。
部外者にとって侵入生物学という言葉は、不安を感じるくらい帝国という言葉とつながり合っていて、外国人嫌いとさえ聞こえるほどのどの不快なニュアンスを含んでいる。その土地に固有の植物は「先住権」と呼び、最近入ってきた植物は「外来者」「エキゾチック」「移植種」「インベーダー植物」と表現される。こおような言葉を使って語られる会話の趣旨とその会話の内容にはある種の一致がある。結局のところ、これらの外来者の多くは、植民地主義に起因し、植民地主義によって可能となったものである。時にアマ二のような帝国植物園は、歴史的にみて、外来種の拡散と定着を可能にした最悪の犯罪者だった。
介入は善か悪か
研究室への帰り道は長く、急な上り坂が続く。アロイスと私は黙り込んで、さまざまな国の植物の間を通り抜けた。まるで、すべての門が開けっぱなしになっている動物園のように感じされた。
地面はここでも黄土色に近い砂地だが、他の場所では肥えていて、深紅に近い色調を帯びている。草が足を運ぶたびにたじろいでいるような気がする。私は立ち上がり、自分の目が自分をあざむいていないことに気づいた。オジギソウだ。その身をすくませる仕草から「敏感な植物」として知られている。指先で触ってみると、小さな葉っぱが縮み上がる。申し訳なく思いながら歩いていると、私の足元の植物から外側へと伝う衝撃波を見た。オジギソウたちは不注意な巨人から逃げるように屋内に入り、雨戸を引き、戸が閉めていった。そうするのも無理はない。タンザニアをはじめ、多くの国で、オジギソウは侵略的雑草と見なされ、土から掘り返されている。
多くの場所で、私たちは地球の管理人としての役割を果たすことに忙しく、だれが生き、だれが死ぬべきかを決めている。
私たちは、一度でも、生態系に自分たちの痕跡を残すと、後日、躊躇なくボンネットを開けて、その仕組みをいじくり回す。私たちは、地球が巨大な植物園であるかのように手入れをし、そこに生息する種に評価を下し、神を演じているのだ。
そのように考え始めると私は神経質になる。「改善」や「文明化」を中心とした、帝国主義的な考え方のように思うからだ。私はオーケストラで植民地主義について研究していたこともあり、慎重にならざるを得ない。善意の介入者であっても、悪意の介入者と同じか、それ以上の害をもたらす可能性があることをよく理解している。私たちはどの時点で、手放すことを学ぶだろう。私たちはいつ過去の自分たちの行為が空振りして無駄になり、その反動が起こるのを見るのだろう。いつ私たちは、地球を自由にしてやるのだろう。そして地球は地球だけが知っている方法で反応し、適応するのだということを、私たちはいつ学ぶのだろう。