じじぃの「科学・地球_582_心の病の脳科学・トラウマ記憶(PTSD)」

トラウマとPTSD[基本]心的外傷後ストレス障害について精神医学のWeb講義 急性ストレス障害

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=f_vK_CFuwpw

PTSD 「恐怖反応の消去」


トラウマ記憶忘却による簡便な心的外傷後ストレス障害(PTSD)改善方法の開発

東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部
●発表概要
心的外傷後ストレス障害(PTSD)は生死に関わるようなトラウマ体験(恐怖体験)を原因とする精神疾患です。
現時点でPTSD治療薬は開発されていませんが、PTSDの有効な認知行動療法として「持続エクスポージャー療法」(注1)が知られています。しかし、この持続エクスポージャー療法では医師と患者が面接し、患者が繰り返しトラウマ体験を思い出し語る中でPTSD症状を抑えていくため、長期間を要し、また、患者と医師双方に大きな負担がかかっています。
以上の背景の中で、東京大学大学院農学生命科学研究科の喜田聡教授らは、マウスのPTSDモデルを用いて、トラウマ体験後にNMDA型グルタミン酸のアンタゴニストであるメマンチン(注2)を投与してトラウマ記憶の忘却(注3)を促進した結果、トラウマ記憶忘却のみならず、トラウマ体験による病的症状(不安の亢進)までもが改善されることを示しました。この結果は、メマンチンの記憶忘却効果を利用することで長期間の面接することなく、投薬だけでPTSDの精神症状を改善できる、すなわち、患者と医師の負担を大きく軽減させた新しいPTSD治療方法を提示したことになり、PTSDが多く発症する震災時などの対策にも有効と言えます。
現在、この方法を用いて国立精神・神経医療研究センターにおいて臨床試験も行われています。
https://www.a.u-tokyo.ac.jp/topics/topics_20190802-1.html

ブルーバックス 「心の病」の脳科学――なぜ生じるのか、どうすれば治るのか

【目次】
第1章 シナプスから見た精神疾患――「心を紡ぐ基本素子」から考える
第2章 ゲノムから見た精神疾患――発症に強く関わるゲノム変異が見つかり始めた
第3章 脳回路と認知の仕組みから見た精神疾患――脳の「配線障害」が病を引き起こす?
第4章 慢性ストレスによる脳内炎症がうつ病を引き起こす?――ストレスと心と体の切っても切れない関係
第5章 新たに見つかった「動く遺伝因子」と精神疾患の関係――脳のゲノムの中を飛び回るLINE-1とは
第6章 自閉スペクトラム症の脳内で何が起きているのか――感覚過敏、コミュニケーション障害…様々な症状の原因を探る
第7章 脳研究から見えてきたADHDの病態――最新知見から発達障害としての本態を捉える

第8章 PTSDのトラウマ記憶を薬で消すことはできるか――認知症薬メマンチンを使った新たな治療のアプローチ

第9章 脳科学に基づく双極性障害の治療を目指す――躁とうつを繰り返すのはなぜか
第10章 ニューロフィードバックは精神疾患の治療に応用できるか
第11章 ロボットで自閉スペクトラム症の人たちを支援する
第12章 「神経変性疾患が治る時代」から「精神疾患が治る時代」へ

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『「心の病」の脳科学 なぜ生じるのか、どうすれば治るのか』

林(高木)朗子/著、加藤忠史/編 ブルーバックス 2013年発行

第8章 PTSDのトラウマ記憶を薬で消すことはできるか――認知症薬メマンチンを使った新たな治療のアプローチ より

既存の治療法は、効果は高いが患者の負担が大きい

PTSD心的外傷後ストレス障害)は、死の危険を感じるような恐怖体験(トラウマ体験)をしたことが原因で発症する精神疾患の一種です。その体験から1ヵ月以上経っても、その出来事が今起きているかのように鮮やかによみがえるフラッシュバック(再体験症状)が起き、不安や緊張が高まる恐怖反応を示します。

PTSDを発症する人の割合は高く、男性の6~8%、女性の13~20%は一生のうち一度はPTSDを発症するという報告もあります。

フラッシュバックや恐怖反応を起こさなくするPTSDの治療薬はまだありません。現在、PTSDの治療には、医師が患者と一対一で面接して、恐怖や意見を思い出すことを1回約90分、数ヵ月に分けて十数回繰り返す暴露療法(エクスポージャー療法)が行なわれています。

この治療法によりフラッシュバックや恐怖反応が消える率はかなり高いのですが、つらい恐怖体験を何度も思い出すことは患者さんにとって大きな負担であり、医師も1人の患者さんに長い時間を割く必要があります。また、治療を成功させるためには、医師に経験や技術が求まられます。そこで、患者さんや医師の負担が少ないPTSDの治療法の開発が望まれます。

恐怖体験が記憶に残りやすい理由

  一時間ほど前、チーズとハムを買いに行こうとホテルの向かいのスーパーマーケットに行ったが、ドアを開けようとした瞬間に奇妙な不安に襲われた。そう言えば、昨年9月11日、このマーケットに入ろうとしたときに携帯が鳴って、同時多発テロを知ったのだった。そのときの衝撃が意識下に刷り込まれていたのだろう。具体的な「場所」によって喚起されるイメージは強い、チーズとハムを買う間も動悸がなかなか収まらなかった。
       (村上龍著『熱狂、幻滅、そして希望』2002年、光文社)

これは、私が恐怖記憶を説明する際によく引用する文章です。ある場所で同時多発テロのニュースを知って恐怖を感じ、その後、同じ場所を再訪したときに恐怖記憶がよみがえり、不安や動機などの恐怖反応が現れる様子が描かれています。

出来事の記憶(エピソード記憶)は、そのとき見たものや聞いたこと、においや痛みなど、五感で得た情報と、怖かった、うれしかったなどの感情をセットとして、記憶するという特徴があります。

私たちは、ほとんどの出来事を無意識に記憶します。そのとき、記憶するかしないかを決める最大の要因は感情です・喜怒哀楽が感情が大きいほど、いつまでもはっきりと覚えている強い記憶となります。
うれしいことや楽しいことよりも、怖いことのほうが強い記憶として残りやすく、特に身の危険を感じるような恐怖を感じた出来事は忘れられない強い記憶となります。

記憶は、初めて聞いた電話番号のように、すぐに忘れてしまう不安的な短期記憶と、脳に固定化されてずっと覚えている長期記憶に分けられます。電話番号でも、好きな人からやっと教えてもらった番号ならば、長く覚えていることもあるでしょう。安定した氷期記憶の形成には、感情が大きく動くことが大事なのです。

とくに、生死に関わる出来事を忘れないように長期記憶とする恐怖記憶の能力は、生物が生き残る上で不可欠なものです。恐怖記憶はさまざまな動物とヒトが共通に持つ脳の仕組みです。

恐怖記憶は、恐怖条件づけと呼ばれる実験により調べられてきました。たとえばマウスを特定のケージに入れて、電気刺激を与える恐怖体験をさせます。そのケージから出して時間をおき、再び同じケージに入れると、身動きしなくなるフリージング(恐怖反応)を示します。普通のマウスは新しい場所に入ると動き回って探索をします。しかし恐怖体験をしたマウスは、恐怖記憶が固定化されて長期記憶となり、同じ場所を再訪することでその恐怖記憶がよみがえり、怖じ気づいて動かなくなる恐怖反応を示すのです。

「恐怖記憶の不安定化」と「恐怖反応の消去」――治療へ向けたアプローチ

PTSDの新しい治療法に向けて、主に2つのアプローチが検討されてきました。1つ目は、「恐怖記憶の不安定化」です。長期記憶を思い出すと、すぐに忘れてしまう短期記憶のように不安定化します。長期記憶が忘れやすい状態となるのです。そして再びずっと安定して覚えている長期記憶とするには、「再固定化」が必要です。
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PTSDの患者さんの脳で、再固定化に必要な遺伝子やタンパク質のはたらきを阻害しておき、恐怖記憶を長い時間思い出してもらえば、その恐怖記憶は不安定となって恐怖感を忘れ、フラッシュバックや恐怖反応がなくなるでしょう。再固定化の阻害による恐怖記憶の不安定化が、PTSD治療に向けた1つ目のアプローチです。

2つ目のアプローチは、「恐怖反応の消去」です。PTSDの原因となった恐怖記憶について、もう怖がる必要がないことを学習し、恐怖感を抑制して恐怖反応を消去します。前述のように、恐怖条件づけされたマウスを、再びケージに入れると身動きしなくなります。しかし、そのケージに入れたまま電気刺激を与えないでおくと、やがてマウスは動き始めます。そのケージにいても、恐怖を感じなくてもよいことを学習したのです。

PTSDの患者さんに行われる暴露療法も、恐怖反応消去です。この暴露療法では、恐怖体験の記憶自体が消えるわけではなく、その体験への恐怖感が抑制されて、恐怖反応が消去されます。患者さんがつらい恐怖体験を思い出すときに、もう怖がる必要がないと学習することが可能な(脳の)状態が保つには、医師に経験と技術が求められるのです。

マウスなどの動物実験により、恐怖記憶の不安定化や、恐怖反応の消去ではたらく遺伝子やたんぱく質の解明が進められ、それらのはたらきを促進する薬も分かってきました。