じじぃの「歴史・思想_694_いま世界の哲学者・ウイルス感染症・ドゥルーズ」

歴史学者ハラリ教授に聞く コロナが抱える危険性,そして未来【報ステ×未来を人から 完全版】【未来をここから】【Yuval Noah Harari】

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=qY1WO6nRivM

感染症と社会の関係


新型コロナ感染症は「近代の終わり」を促すか?

2020.07.13 岡本裕一朗 - SYNODOS
●新型コロナ感染症はポスト近代の夢を見る?
そもそも、新型コロナ感染症にかんして、どうして「近代/ポスト近代」を語るのか。
おそらく、こう問われるかもしれない。そのために、まずミシェル・フーコーの議論を確認することから始めよう。
https://synodos.jp/opinion/society/23663/

いま世界の哲学者が考えていること

岡本裕一朗(著)
【目次】
序章 現代の哲学は何を問題にしているのか
第1章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
第2章 IT革命は人類に何をもたらすのか
第3章 バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか
第4章 資本主義は21世紀でも通用するのか
第5章 人類が宗教を捨てることはありえないのか
第6章 人類は地球を守らなくてはいけないのか

第7章 リベラル・デモクラシーは終わるのか

 第1節 アメリカ政治の転換(2016年以後)
 第2節 新型コロナウイルス感染症パンデミック(2020年以後)
 第3節 ウクライナ戦争(2022年以降)

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『いま世界の哲学者が考えていること』

岡本裕一朗/著 朝日新聞出版 2023年発行

第7章 リベラル・デモクラシーは終わるのか――第2節 新型コロナウイルス感染症パンデミック(2020年以後) より

規律社会から管理社会へ

今度は、2019年末に発生し、年が明けてから世界的なパンデミックになった「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)を取り上げましょう。
これは、言うまでもなく医療的な現象ではありますが、同時に社会そのものを大きく変えてしまうほどの、画期的な事件と見なすことができます。そのため、これを哲学的にどう理解するかは、きわめて重要な問題になってきます。

その意義を理解するために、やや遠回りのように見えますが、あらかじめミシュル・フーコーの『監獄の誕生』の議論を確認する必要があります。フーコーの理論については、第2章でも述べていますので、くわしく繰り返すことはしませんが、ここでは1つだけ付け加えておきたいと思います。それは、フーコーが近代的な監視システムである「パノプティコン」を描くとき、念頭には感染症であるペストとの対応関係があったことです。たとえば、次のように語っています。

  閉鎖され、細分され、各所で監視されるこの空間。(中略)権力は、階層秩序的な連続した図柄をもとに一様に行使され、たえず各個人は評定され検査されて、生存者・病者・死者にふりわけられる。(中略)ペストの蔓延に対応するのが秩序であって、それはすべての混乱を解明する機能をもつ。

では、それ以外の社会はどうなっているのでしょうか。フーコーが語っているのは、近代以前の社会ですが、それを「ハンセン病」と対応づけています。

  ハンセン病は排除の祭式は、<大いなる閉じ込め>のモデルおよびいわばその一般的形式を或る程度まで提供したのは事実だが、ペストのほうは規律・訓練の図式をもたらした。

とすれば、近代以後については、どんな感染症が想定できるのでしょうか。ところが、当然のことながら(フーコー1984年に亡くなっています)、近代以後の社会については何も語られていません。それを知るにはむしろ、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの管理社会論を参考にして考える必要があります。

  私たちが「管理社会」の時代にさしかかったことはたしかで、いまの社会は厳密な意味で規律型とは呼べないものになりました。

とはいえ、ドゥルーズがこう語るとき、フーコーのように感染症との対応は示していません。そこで、ドゥルーズが語っていない対応を、あえて問題にすることにしましょう。

そのとき、浮上してくるのが、おそらく新型コロナウイルス感染症ではないでしょうか。今日の観点から見ると、ドゥルーズの管理社会論は、新型コロナウイルス感染症と対応づけて理解するのが、もっとも適切であるように感じます。

そこで、フーコードゥルーズの議論を参考にしながら、感染症との対応を図式化(画像参照)してみましょう。

これを見ると一目瞭然ですが、近代がペストに対応する形で規律と訓練の社会を形成したとすれば、ポスト近代の社会(現代社会)はコロナ型の社会を形成すると言えます。そのとき中核の技術となるのが、人々を分散させつつ管理する、デジタルテクノロジーであるのは明らかでしょう。
ポスト近代の社会では、コンピュータとそのネットワークを使って、いつでも管理するデジタル技術が中心となります。

こうしたデジタル・テクノロジーを駆使することなくしては、コロナ・パンデミックに対処できないのではないでしょうか。しかし、社会の実際の対応はどうだったのでしょうか。

科学にもとづく民主的な管理は可能か?

そこで、今度は、「共産主義」ではなく、まったく違った形の社会管理を提唱している、イスラエル歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリの議論を確認しておきましょう。彼については、世界的なベストセラーになった『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』によって、日本でもよく知られています。今日ではさらに、世界のオピニオン・リーダーとして、積極的に発言しています。
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それでは、こうした科学的な観点に立って、ハラリはどの方向へ進むことを提唱するのでしょうか。彼によれば、「感染症の流行を食い止めるためには、各国の全国民が特定の指針に従わなくてはならない。これを達成する主な方法は2つある。」そのうちの1つが、政府が国民を監視することです。

  1つは、政府が国民を監視し、規則に違反する者を罰するという方法だ。今日、人類の歴史上初めて、テクノロジーを使ってあらゆる人を常時監視することを可能になった。(中略)今や各国政府は、生身のスパイの代わりに、至る所に設置されたセンサーと、高性能のアルゴリズムに頼ることができる。

こうした監視技術は、スラヴォイ・ジジェクスロベニア生まれの哲学者・精神分析学者)も批判した中国においてとくに発達しています。たしかに、有効性という点ではハラリも認めるのですが、しかし、それが全体主義的になることをハラリは危惧するのです。

そのため、違った例として、韓国や台湾やシンガポールなどを念頭に置きながら、こう述べるのです。「全体主義的な監視政治体制を打ち立てなくても、国民の権利を拡大することによって自らの健康を守り、新型コロナウイルス感染症の流行に終止符を打つ道を選択できる。」これが、感染症の流行をくい止めるもう1つの方法です。こうして、ハラリは、監視技術の2つの方法の違いを明確にして、次のように述べています。

  有益な指針に人々を従わせる方法は、中央集権化されたモニタリングと厳しい処罰だけではない。国民は、科学的な事実を伝えられているとき、そして公的機関がそうした事実を伝えてくれていると信頼しているとき、ビッグ・ブラザーに見張られていなくてもなお、正しい行動を取ることができる。自発的で情報に通じている国民は、厳しい規制を受けている無知な国民よりも、たいてい格段に強力で効果的だ。

ここで、ハラリが推奨するこの2番目の方法を、デモクラシー的な管理と呼ぶことにしましょう。

情報テクノロジーを利用して国民を監視するとしても、全体主義的な規制とデモクラシー的な管理とでは、国民に大きな違いが出てくるわけです。