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『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』
品田遊/著 朝日新聞出版 2022年発行
茶番 より
読んでいた本に「人生が茶番に見える。しかしその茶番に付き合うのが人生である」という内容のことが書かれていた。
なんらかの精神的・肉体的な困難を負っている「生きづらい」人々には世界が茶番に見えがちだ。私もどちらかといえば「生きづらい」側の人間なのだろうと思う。この世界は根拠のないルールが支配する「クソゲー」なのは間違いない。しかし、だとしても、その真実が絶対に表面化することはないことこそ、そういった指摘が負け惜しみの呪詛(じゅそ)にしかならない現実こそ、哲学的には注目すべき事実だ。
おそらく、不幸であるということは哲学的には(哲学をするという行為においては)ある種の幸運なのだろう。というのは、社会と折り合いがつかない事実によって、この社会がいかにして形成されているか、という構造に思い至る機会を得るからだ。完璧に社会に適応できていると、それに気づくのは難しい。初発の「違和感」にたどり着かないからだ。疎外された場所から遠巻きに眺めることでのみ知ることができる全貌があるに違いない。
しかし、不幸はあくまでそういった「機会」を与えているに過ぎない。我が身に降りかかった不幸それ自体を根拠にして思想を育てるのは、哲学的に正しい態度とはいえない。それは、ただ世界を呪っているのと同じになってしまう。
生きづらい者たちにとって世界がいかに茶番めいていようとも、茶番がなければ社会は成り立たない。その意味で、やはりこの世界は茶番などではない。この二重性を自然に見渡せる機会こそ、不幸が与えてくれる数少ないハンデである。不幸特有の気分に浸っているだけでは充分とはいえない。最近、強くそう思うようになった。
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どうでもいい、じじぃの日記。
品田遊著『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』という本に、「茶番」というエッセイが書かれていた。
「なんらかの精神的・肉体的な困難を負っている『生きづらい』人々には世界が茶番に見えがちだ。私もどちらかといえば『生きづらい』側の人間なのだろうと思う」
茶番・・・簡単に底が割れる(筋道や結果や魂胆が見え透いている)ような馬鹿げた振る舞いを意味する表現のこと
先日、テレビで朝の情報番組を見ていたら、大谷翔平選手のことが話題になった。
コメンテーターがこんなことを言っていた。
「彼はエイリアン(人間離れ)なのだと思う。この暗い日本を明るくしてくれる救世主だと思う」
アメリカ・シアトルから中継。
シアトル・マリナーズの球場の周りには長蛇の列が。大谷選手はエンジェルの人間なので敵なのだが、大谷選手のファンの列なのだとか。
「生きづらい者たちにとって世界がいかに茶番めいていようとも、茶番がなければ社会は成り立たない」
世界が茶番であっても、大谷選手の試合は見たいです。
彼のスイーパー(横に大きく曲がる変化球)は、水平方向に22インチ(約56センチ)変化するそうです。