修辞法(レトリック)とは?種類と使い方【例文つきで簡単解説】
2021.10.27 記事ブログ
修辞法(しゅうじほう)とは、言葉を美しく巧みに使って効果的に表現する方法です。レトリック(rhetoric)ともいわれます。
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『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』
品田遊/著 朝日新聞出版 2022年発行
生死 より
よくある話だが、子どものころ布団の中で「このまま目覚めずに死んでしまったらどうしよう」と考えては恐ろしくなっていた。最初に感じた市の恐怖だ。本当に死んだらどうしようも何もないのに「どうしよう」と思っていた。
改めて考えるとそれは、死んでしまったが最後「どうしよう」などと思うことすらできない、という事実が怖かったのかもしれない。どうすることもできない、端的な無。それが確実にいつか待ち受けているという事実。
「死」は想像するだに恐ろしい。ただ人によってはこの種の恐怖がよくわからなかったり、「痛みの恐怖」や「生への未練」のようなものと混同していることも多いようだ。私は昔からそれが理解できなかった。そんなものとは一切関係のない恐ろしさなのに。
成長するにつれて本を読んだりして、私のこの恐怖は徐々に修正されていった。最初は「眠ったまま死んで目覚めなかったらどうしよう」という発想だったが、よくよく考えればこの恐怖は眠りを経由する必要などない。問題は「世界を認識している私」の消失なのだから、日中、仕事をしているときに突然「この私」だけが消えてなくなってしまう、というようなことだってありうる。仕事をする私の肉体と機能はそっくり残っていたって良い。この場合、私が消えてしまったことには誰も気づかない。
このように拡張してみると、幼い私が何を怖がっていたのかが少しだけクリアになる気がした。私は私が消えてしまう(死ぬ)ことが怖いというよりは、現に私がこの世界の中にいるということが、客観的に説明可能な事実の羅列のなかには全く書き込まれていない、という事実の不可解さを怖がっていたのだ。
これは孤独の恐怖だ。私はなんとなく、世界の中に、社会の一員として参加しているような気がして生きているけれど、それは実際には錯覚なのだ。本当の私というものは、真空の宇宙に漂うたったひとつの点のような、亡霊なのである。
死は世界の装飾を剥(は)ぎ取って、点にすべてを収斂(しゅうれん)させていくというものだ。私にとっての恐怖は死そのものではなく、死が「存在」の不可思議を示すということの内にある。
この「恐怖」は実は、恐怖と勘違いしてしまうほどに大きな「驚き」であった。私は本当は、ずっと死や無を怖がっていたのではなくて、生や存在に驚いていたのである。
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どうでもいい、じじぃの日記。
図書館から、品田遊著『キリンに雷が落ちてどうする 少し考える日々』という本を借りてきた。
その本に、「生死」というエッセイが書かれていた。
「死は世界の装飾を剥(は)ぎ取って、点にすべてを収斂(しゅうれん)させていくというものだ。私にとっての恐怖は死そのものではなく、死が『存在』の不可思議を示すということの内にある」
「生」と「死」、または「生」と「無」は真逆の言葉だ。
本当の私というのは、「生」なのか、「無」なのか。
本当の私が「無」ならば、まさに、生や存在に驚いてしまうことだろう。
まあ、生は無の内の錯覚(レトリック)なのかもしれない。