じじぃの「歴史・思想_689_いま世界の哲学者・人間の終わり・スローターダイク」

【落合陽一】『人間』という概念は“発明”された?私たちが主体として『人間』を捉えるようになった理由と『ポスト・ヒューマン』について考える。

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VDhNQdj1vfo

The benefits and risks of AI and post-human life


哲学者はポストヒューマンをどう見ているか?

2021.01.31 高橋医院
また ドイツのペーター・スローターダイク
人間を遺伝子操作できる現代は
ポスト人間主義的時代である
近代以降のヒューマニズム 人文主義人間主義
現代において終焉しつつあり
近代を支配した 書物の時代と人間の時代が
今や終わり始めている
と述べています

●現代
IT革命によるポスト人文主義
バイオテクノロジー革命によるポスト人間主義
と流れています
https://hatchobori.jp/blog/22201

いま世界の哲学者が考えていること

岡本裕一朗(著)
【目次】
序章 現代の哲学は何を問題にしているのか
第1章 世界の哲学者は今、何を考えているのか
第2章 IT革命は人類に何をもたらすのか

第3章 バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか

第4章 資本主義は21世紀でも通用するのか
第5章 人類が宗教を捨てることはありえないのか
第6章 人類は地球を守らなくてはいけないのか
第7章 リベラル・デモクラシーは終わるのか

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『いま世界の哲学者が考えていること』

岡本裕一朗/著 朝日新聞出版 2023年発行

第3章 バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか――第5節 現代は「人間の終わり」を実現させるのか より

BT革命が「人間」を終わらせる

これまで、現代におけるバイオテクノロジーの状況を具体的に見てきましたが、ここであらためて「人間概念」に着目したいと思います。というのも、バイオテクノロジー(BT)革命が、いままでの「人間概念」を根底から変えてしまうからです。

それを確認するために、フランスの哲学者ミシュル・フーコーが提示した「人間の死」という考えから始めることにしましょう。フーコー構造主義が流行していた1960年代に、『言葉と物――人文科学の考古学』(1966年)を出版し、その最後で「人間の終わり」を次のように宣言しています。

  人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明に過ぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。もしもこうした配慮が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれはその可能性くらいは予感ができるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが18世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば――そのときにこそ賭けてもいい、人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するであろうと。

ここで語られている「人間の終わり」は、フーコーの名前とともに一躍有名になりましたが、その意味はあまり理解されませんでした。この言葉が「生物としての人間の終わり」を意味しないことは、言うまでもありません。それでは、この表現で、いったい何が意図されていたのでしょうか?
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ここで明白なように、フーコーが語る<人間>とは、近代の発端において、カントによってあみだされた「人間概念」、つまり「経験的=超越論的二重体としての人間」に他なりません。
注目したいのは、こうした「人間概念」とともに近代が始まり、人間諸科学が形成された、という点です。

ヒューマニズム」の終焉

ニーチェフーコーは、「人間の終わり」や「人間の超克」を語っていましたが、そのとき想定されていたのは「生身の人間」ではなく、あくまで「概念としての人間」でした。その点では、彼らの思想は抽象的なままだったと言えます。ところが、バイオテクノロジーの発展によって、その思想が現実味を帯びてきたのです。こうした気配を嗅ぎとって、20世紀末に、ドイツの哲学者ペーター・スローターダイクが、ある講演ののかで、次のように述べました。

  人間たちが次第次第に、選別において能動的かつ主体的な立場に立つようになること(中略)は技術的、人間技術的な時代の兆候である。(中略)将来においては、ゲームを能動的に活用し、人間技術のコード体系を定式化することが重要な意味を持つだろう。

この発言そのものは、必ずしも明確とはいえず、そのままでは何を主張しているのかはっきりしません。ところが、講演が行なわれたのは、「体細胞クローン羊」のニュース(1997年発表)直後ということもあって、ドイツではセンセーショナルな受け取られ方をしたのです。スローターダイクはその講演でニーチェの表現(「育種」)を利用しながら、「人間というものは、その内のある者が自らの同類を育種する一方で、他の者たちは前者によって育種されるような獣である」と述べています。これがまさに、人間に対する遺伝子操作の肯定と理解されたわけです。

このスローターダイクの講演に対して、「ドイツの良心」と呼ばれるハーバマスやその周辺の思想家たちが反発し、大きな論争になったのです。ハーバマスの議論は、すでに見ておきましたので、ここではスローターダイクの講演そのものの意義を確認しておきたいと思います。というのも、スローターダイクの講演は、バイオテクノロジーの問題を、歴史的な視点から捉えているからです。

スローターダイクによると、「人間」を遺伝子操作する現代は、ポスト人間主義的時代と呼ばれていますが、ここで人間主義ヒューマニズム)という言葉には注意が必要です。周知のことですが、ルネサンス以来、人文学(Humanities)とされますので、ヒューマニズムは「人文主義」でもあります。つまりルネサンス以降の近代において、ヒューマニズムは書物による研究(人文学)であると同時に、人間を中心にした「人間主義」でもあったのです。スローターダイクは、こうした近代の「人文主義人間主義」が現代において終焉しつつある、と宣言したわけです。
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一方で情報通信技術の発展(IT革命)によって書物にもとづく「人文主義」が、他方で生命科学遺伝子工学の発展(BT革命)によって「人間主義」が終わろうとしています。近代を支配していた書物の時代と人間の時代が、今や終わり始めたのです。