じじぃの「歴史・思想_666_人類の足跡10万年全史・アメリカへ渡った人たち」

Beautiful ancient ruins discovered in the USA

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=r6Ec3P64U9g

Land bridge that brought travelers from Siberia to North America


   

人類の北米到達、アイダホ州の遺跡


人類の北米到達、定説覆す新証拠 アイダホ州の遺跡

2019.09.06 ナショナル ジオグラフィック日本版サイト
アイダホ州西部の遺跡が、南北アメリカ大陸で最古の部類に入るとの研究結果が、8月30日付けの科学誌「サイエンス」に掲載された。

20~30年前までは、おおむね1万3000年前のクロービス石器が、アメリカ大陸で最初の人類による技術だと考えられていた。いわゆる「クロービス・ファースト」仮説だ。
この石器を作った人々は、かつてシベリアとアラスカを結んでいた陸地、ベーリング陸橋を渡り、アジアから徒歩でやってきて初めて北米に入ったと、多くの研究者が考えていた。北米の内陸部を覆っていた広大な氷床がおよそ1万4000年前に後退し始め、氷の消えた回廊地帯(無氷回廊)が現れ、そのルート沿いに南下してきたというものだ。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/090500516/

人類の足跡10万年全史

ティーヴン・オッペンハイマー(著)
【目次】
プロローグ
第1章 出アフリカ
第2章 現生人類はいつ生まれたのか
第3章 2種類のヨーロッパ人
第4章 アジア、オーストラリアへの最初の一歩
第5章 アジア人の起源を求めて
第6章 大氷結

第7章 だれがアメリカへ渡ったか

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『人類の足跡10万年全史』

ティーヴン・オッペンハイマー/著、仲村明子/訳 草思社 2007年発行

プロローグ より

遺伝子系統を名づける

本書では、父系あるいは母系一族、遺伝子系統、血統、遺伝子集団/系統、さらにはハプログループといった表現を言い換えながら使っている。これらの言葉はだいたい同じことを意味しており、共通の(たいていはそのミトコンドリアDNAかY染色体による)祖先をもつ遺伝子の型からなるグループということである。集団の大きさはあるていど恣意的で、その系統の根元を遺伝子系統樹のどのあたりまでさかのぼるかにかかっている。
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ミトコンドリアDNAの場合はもう少し容易である。早い段階で多くの研究室が1つの用語体系に統一することに合意したからだ。たとえば、ただ1つの出アフリカ系統L3には、2つの非アフリカ娘系統のNとMがあることが認められている。わたしはそれらについては、Nは南アラビア起源であることを示すナスリーンと、Mはインド亜大陸に起源にふさわしいマンジュと呼ぶことにしている。

第7章 だれがアメリカへ渡ったか より

モンテベルデ論争

以上のような論点(クロービス遺跡よりモンテベルデ遺跡のほうが古いとする説)のいくつかを、モンテベルデ論争の歴史によって説明してみよう。
ケンタッキー大学のトム・ディルヘイは、1977年からチリ南部のモンテベルデ遺跡の発掘にかかわり、彼と同僚はクロービス最古説(1930年代に、アメリカのニューメキシコ州にあるクロービスで後期氷河期のものと見られる遺跡が複数発見された)の要塞に対抗する、かなりの武器を集めていた。約3万3000年前と推定される割られたペブルトゥール(打製石器)など、非常に早期に人類がモンテベルデに居住したことを示す証拠はあったものの、「最良の」証拠はもっと後代のものだった。その遺跡は泥炭湿地にあり、多くの有機物や人の居住を示すような遺物を保存していた。足跡、木の人工遺物、小屋の一部と思われる構造物、炉床、切断された骨を含み原始ラマとマストドンの骨、種、堅果、ベリー、塊茎類などである。有機遺物の炭素年代測定法は1万1790から1万3565年(平均1万2500年)前と推定された。剥片や丸石のような単純な石の道具も発見された。

モンテベルデ遺跡はアラスカの氷の通路から1万2000キロメートル南にあり、約1万2500年前のもので、どのようなクロービス遺跡より1000年は先行するように思える。そのことから当然生じる疑問は、1万3000年前以後に、人が氷の通路を通って、しかもこれほどの距離を南下して文化を変えるだけの時間があったのかという点だ。このことは、クロービス正説に対抗するのに強力な武器になるように思えた。

メドウクロフトの衝撃

長年にわたって注目を集めている別の遺跡は、メドウクロフト岩窟だ(米国ペンシルベニア州のメドウクロフト岩窟の資料は、石刃技法による石刃、尖頭器の製作に特徴づけられる)。
30年にわたり、ペンシルベニアの考古学者ジェイムズ・アドバァンシオは先頭に立ってこの遺跡を調査してきた。彼と同僚は11層の床を彫り、2万点の石の剥片や物品、大量の動植物の遺物を発掘した。メドウクロフトの発見物に対して、52の酸素年代測定法による年代が発表された。もっとも古い、底部の不毛な粘土層は3万1000年前、上のもっとも新しいものはわずか1000年前のものだった。パレオ・インディアンの居住とははっきりと関連づけられる年代は、1万6225年前にさかのぼり、またもっとも深い居住層には、1万9000年以上前という年代が出された。

アジアの源は2つか3つか?

前章では、大氷河時代到来によってアジア人は、ヒマラヤ山脈の北にある中央アジア高原地域の、生存しにくくなったマンモス・ステップから東、南東、そして北東へ追いやられたことを述べた。また東アジアには3つの異なる集団があって、それぞれ異なる遺伝子と文化をもっていたとも話した。
1つめは、すでにアジアの東沿岸、ことに日本にすでに住んでいた、古代の海岸採集民の子孫たち。2番めはモンゴロイドで、東南アジアの南モンゴロイド、そして揚子江から北と、内陸のチベット-青海高原にもいた北モンゴロイドだ。最後に、ロシア・アルタイから広がり、北ヨーロッパ人と東ヨーロッパ人と遺伝子型を共有する北ユーラシア人だ。
アメリカへの移動の源となった可能性のある地理的場所は、それらに応じて少なくとも3つある。中央アジアでは源の可能性がある地域が2つある。それらは氷河時代の前には広く重なり合っていたが、おおよそで言えば南はチベット-青海高原のあたり、北はロシア・アルタイ地方と南シベリア地方と南シベリアのステップのあたりだ。そのため、遺伝的、文化的、そして身体的に異なる2つのグループがあった。つまり北西方面のマンモスを狩る上部旧石器時代の西ユーラシア人と、細石刃をつくる、南のおそらくは初期のモンゴロイドである。
第6章で述べたとおり、前者は東へウダ川をオホーツク海までくだり、それからアムール川からサハリン、北日本へと入っていった。後者は沿岸に向かい、中国の2つの大河、揚子江黄河を下ったのかもしれない。