What Was Asia Like During Ice Age?
中国 オルドス市で旧石器時代の石器が大量出土
オルドス市で旧石器時代の石器が大量出土 中国・内モンゴル自治区
2023年1月6日 AFPBB News
中国広東省の中山大学社会学・人類学学院は昨年、内モンゴル自治区オルドス市の東ウランムルン川流域で、同市文物考古研究院と3カ月間の合同発掘調査を実施し、旧石器時代の遺跡99カ所を発見した。出土した石器は1万点近くに上った。考古学者は4万5千~7万年前の中・後期旧石器時代の古人類遺跡との見方を示している。
同流域で発見された遺跡は群集しており、石器は石核、石片、道具などが採集された。道具は鋸歯刃器(鋸歯縁石器)、刮削器、欠凹器(抉入石器)が中心で、2010年に発見されたウランムルン遺跡の出土品と類似していた。石核の多くは単方向に剥離した求心状剥離石核で、当時の成熟した石核製作技術を反映している。
https://www.afpbb.com/articles/-/3445643
人類の足跡10万年全史
スティーヴン・オッペンハイマー(著)
【目次】
プロローグ
第1章 出アフリカ
第2章 現生人類はいつ生まれたのか
第3章 2種類のヨーロッパ人
第4章 アジア、オーストラリアへの最初の一歩
第5章 アジア人の起源を求めて
プロローグ より
遺伝子系統を名づける
本書では、父系あるいは母系一族、遺伝子系統、血統、遺伝子集団/系統、さらにはハプログループといった表現を言い換えながら使っている。これらの言葉はだいたい同じことを意味しており、共通の(たいていはそのミトコンドリアDNAかY染色体による)祖先をもつ遺伝子の型からなるグループということである。集団の大きさはあるていど恣意的で、その系統の根元を遺伝子系統樹のどのあたりまでさかのぼるかにかかっている。
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ミトコンドリアDNAの場合はもう少し容易である。早い段階で多くの研究室が1つの用語体系に統一することに合意したからだ。たとえば、ただ1つの出アフリカ系統L3には、2つの非アフリカ娘系統のNとMがあることが認められている。わたしはそれらについては、Nは南アラビア起源であることを示すナスリーンと、Mはインド亜大陸に起源にふさわしいマンジュと呼ぶことにしている。
第6章 大氷結 より
氷河時代の避難地
アフリカの人類も、その前の200万年間に大きな氷期ごとに祖先たちがつねに苦しんだように、苦しんだ。サハラ砂漠が拡大して北アフリカ全体を覆い、カリハラ砂漠は南西アフリカの大部分に広がり、木のない乾燥した草原がサハラ以南の大地の大半を覆った。中央アフリカと西アフリカの大きな多雨林は縮小し、赤道付近の中央アフリカや西アフリカ南部のギニア沿岸に点在するだけになった。東アフリカでは乾燥したサバンナが、ふたたび東アフリカと南アフリカの人類を分断した。乾燥した草原に囲まれた低木の茂る避難地だけが、狩猟採集民のために点々と残された。
北ヨーロッパと中央ヨーロッパ、そしてアメリカに氷の城がきずかれているとき、ヨーロッパの解剖学的な現生人類はどうしていたのだろうか。彼らはそこを去るか死に絶えたかして、のちに中東から来た者たちと入れ替わったのだろうか。わたしたちのいとこ、ネアンデルタール人はすでにLGM(最終氷期極大期 約2万年前、Last Glacial Maximum)の1万年前に姿を消している。考古学的記録は、LGM前からいたヨーロッパ人はそこにとどまったことを示しているが、アフリカでおこったように、彼らの居住範囲は氷河時代でも気候が穏やかだった南の3、4個所へと縮小した。遺伝子の痕跡も、そのような氷河時代の避難地の起源と人類の構成について非常に多くを語っているが、まずは考古学的記録を検証してその背景から描いていくことにしよう。
ヨーロッパの大半はLGMのあいだ居住されなかった。南ヨーロッパには、ヨーロッパの上部旧石器時代の人々が避難した3つの主要な避難地があった。
2本の川の物語
特徴的な「チョッパー・チョッピング」(岩石の一部を打欠いてつくった両刃の石器。前期旧石器時代に特徴的である)技術が極東で継続した理由がなんであれ、それらが最終氷期のピークに中央アジアから中国と東南アジアへ多文化が侵入したときの背景であった。この一般的な背景に、ここで「2本の川の物語」と呼ぶ地理的、年代的構造がさらに加わる。北中国の旧石器文化は地理的に黄河のまわりに集中しており、LGMのずっと以前から、中央アジアの上部旧石器文化の革新の影響をますますうけるようになっていた。最初に剥片、ついで石刃、最後にLGM時代の東シベリアのジュクタイ文化(北東アジアの石器文化)を忍ばせる特徴的な両面を打ち欠いた尖頭器が、日本のような極東にまで移動し、古い道具や武器と入れ替わった。いっぽう南中国はいわば揚子江に支配され、地理的にも環境的にも中央アジア・ステップの文化をうけず、別の、遅めの進化をとげた。
中国と東南アジアに西方からLGM時代にもたらされたと思われる別の影響は、シベリアの上部旧石器文化と並行して発達したらしい。新疆ウイグル自治区のタクラマカン砂漠南端を流れるタリム川流域の剥片石技術と、青海高原の細石刃技術だ(細石刃は、調整した石核から割られた平行側面の小さな角柱片)。
いくつかの西の上部旧石器技術の影響は、氷河時代より前から北中国と南内モンゴルに現れた。3万5000~5万年前のあいだのもっとも早期のものは、オルドス高原と言われる黄河中流の湾曲部近くで発掘された。北京近くの有名な山頂洞窟からはLGMごろの洗練された骨、貝、石の人工遺物が見つかり、そのなかには穴を開けた針や、1万8000年前と推定される骨、貝、石の複雑なネックレスも見られる。3つ穴の針や、骨と角の道具を特徴とするさらに洗練された上部旧石器文化は、黄河下流から沿岸に沿って、LGM後も発達をつづけた。しかしLGMのあいだもっとも住むのに適していた中国東岸の多くは今では海中に没し、考古学者の手には届かない。
さらに北と東の極東ロシア、日本、そして韓国は、LGMのあいだに技術の飛躍的な変化を見せている。極東ロシアの、炭素年代測定法による最早期の上部旧石器時代の大石刃遺跡は、アムール川沿いにある地理学協会洞窟として知られるようになったものだ(50ミリを超える石刃は大石刃と分類される)。小石刃はこの地域にLGMのころ(1万9350年前)に最初に現れたが、それは日本海沿岸に近いプリモリエ(スラヴ諸語で海に面していることあらわす語)においてだった。
日本には世界のどこよりも、LGMごろの連続した詳細な記録がある。
2万年前より以前、東アジアで優勢な石核道具とチョッパー・チョッピング様式を、日本も共有していた。2万年前から1万8000年前のあいだに、剥片や石刃(これは時代とともにふつうになる)など多くの派生産品によって西の上部旧石器文化を思わせる、豊かで新しい石の技術がそれに取って代わった。やがて1万4000年前から1万2000年前にかけて、細石刃と両面尖頭器が一般的になった。
韓国はそれほど徹底的に調査されていないが、石核道具から剥石、そしてLGMごろに石刃へ行こうする同じ順序が見られる。そのどちらにおいても、氷河時代のころは拡大と技術変化の時代で、古い東アジアの様式は急速にすたれ、それはおそらく西の氷結するアジアのステップから技術と狩猟者たちが流入したためだったろう。