じじぃの「歴史・思想_660_人類の足跡10万年全史・出アフリカ・オーストラリア問題」

The Humans That Lived Before Us

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=_ANNQKKwWGk

オーストラリアへの複数移動の仮説。

   

人類の出アフリカ 13万年前か?

2014年04月24日 きんちゃんのぷらっとドライブ&写真撮影
現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生の地であるアフリカを初めて出たのは13万年前ごろで従来考えられていたより早かった―。
ドイツとフランス、イタリアの研究グループが21日公表された科学誌『米科学アカデミー紀要』電子版に発表しました。これまでは現生人類がアフリカを出たのは1回だったとされてきましたが、今回の研究は複数回だったことを示しています。
現生人類はアフリカで20万年前ごろ誕生し、その後、アフリカを出て世界各地へ広がったとする説(アフリカ単一起源説)が有力です。これまでの研究では、アフリカを出たのは5万~7万5000年前の1回だけだったとされてきました。
しかし、最近、アフリカを出た現生人類が最初に足を踏み入れたと考えられるアラビア半島で13万年前ごろの遺跡が見つかるなどしたため、もっと早かったとする説も提唱されています。
https://plaza.rakuten.co.jp/kinchan07/diary/201404240000/

人類の足跡10万年全史

ティーヴン・オッペンハイマー(著)
【目次】
プロローグ

第1章 出アフリカ

第2章 現生人類はいつ生まれたのか
第3章 2種類のヨーロッパ人
第4章 アジア、オーストラリアへの最初の一歩
第5章 アジア人の起源を求めて
第6章 大氷結
第7章 だれがアメリカへ渡ったか

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『人類の足跡10万年全史』

ティーヴン・オッペンハイマー/著、仲村明子/訳 草思社 2007年発行

第1章 出アフリカ より

オーストラリア問題

出アフリカ北ルート説の根底にある文化的ヨーロッパ中心主義で、最大の問題となるのはオーストラリア人である。彼らはヨーロッパ人よりもずっと早く、そしてヨーロッパ人の助けをかりずに自分たちの歌や踊り、絵画を進化させたのだ。いったい彼らはアフリカのどの部分からやってきたのか。どのルートをとったのか。彼らはヨーロッパに広がった移住者たちの一部だったのか。そして何よりも、彼らはどうやってヨーロッパ人がヨーロッパへたどりつくはるか以前にオーストラリアまで行くことができたのだろうか。この謎には数々の巧みな合理化が試みられた。

シカゴの人類学者、リチャード・G・クラインが述べているように、4万5000年前に人類が一度だけアフリカの北のヨーロッパへ移動し、それにつづいて世界の各地に人が広がったというなら、それらの問いに答えるのは容易でないだろう。この年代はオーストラリアからの発見物からすれば遅すぎ、この説にはそぐわないのだ。動物学者でアフリカ専門家、芸術家、そして作家であるジョナサン・キングダンはその説をさらに推し進め、最初の「失敗した」北のレバント地方(東部地中海沿岸地方)への移動は、12万年前におこなわれ、それによってレバント地方から東へ拡大して東南アジアに移り住み、そして9万年以上前にはオーストラリアにも移住していたのだと論じている。したがってこの説では、早期におこなわれた一度だけの北ルートからの移動を想定している。クリストファー・ストリンガーは、オーストラリアにはヨーロッパよりずっと前に、紅海ををまわった別の集団が単独で移住したと、もっともシンプルな解釈を提案している。

ストリンガーと同じように、考古学者ロバート・フォーリーと、古人類学者のマルタ・ラーのケンブリッジ・チームもまた、北ルートを経由してレバント人のるつぼだったと論じている。彼らはアフリカからの移動の回数にはこだわらず、そのかわりにエチオピア北アフリカに点在した避難地から複数の移動があったと仮定する。この見解は、12万5000年前の間氷期にアフリカで人口の拡大があったことを考慮に入れたものだ。ラーとフォーリーによれば、氷河の乾燥した状況に戻ったことにより、アフリカ大陸には島状の緑地に人類の居住地が孤立し、それらは、その後5万年のあいだ砂漠によってへだてられていたという。フォーリーとラーの説によれば、東アジア人とオーストラリア人の祖先はいつでもエチオピアから出発し、紅海を渡って東へ行けたことになる。そしてヨーロッパ人の祖先とは別の、南ルートをとったことになる。フォーリーとラーは最近の遺伝・先史の総合研究でアメリカのY染色体専門家ピーター・アンダーヒルと協力して、この南北ルートの論考をさらに押し進めた。彼らの説明によると、早期に南ルートからオーストラリアへの移動があり、のちに北へ向かう主要な出アフリカの動きが3万から4万5000年前のあいだにあって、スエズとレバントを経由してヨーロッパやほかのアジアへ向かったという。

このように、ヨーロッパ人は北アフリカ経由でやってきたという多くの専門家の主張は、さまざまな正当化の上に成り立っている。すなわち、北アフリカの避難地や、複数の出アフリカ移動、あるいは早期のレバンよから極東へ向けての移動などである。ヨーロッパ人のための神聖な北ルートをあくまで残そうとするこれらの合理化には問題がある。もっとも単純なものを最初にとりあげると、ジャナサン・キングダンは12万年前のイーミアン間氷期に、ただ1回、北からの出アフリカ移動があったとしている。当時アフリカと西アジアの多くの砂漠の通路が緑に覆われていたので、オーストラリアへ移動することになる者たちは元気よく東へ向かって歩き、レバントからインドへとまっすぐに進むことができたという。彼らはそれから南アジアの緑地で休むこともでき、9万年前には東南アジアへの到着し、それからオーストラリアに移住したのかもしれないというのだ(わたしの言う「南アジア」とは、アデンからバングラデシュまでのインド洋に面した国々、つまりイエメン、オマーンパキスタン、インド、スリランカバングラデシュと、アラビア湾を取り巻くサウジアラビアイラクレバノンアラブ首長国連邦、そしてイランの最南部である)。

古代、レバントの東に技術をもった人類がいた証拠としてジャナサン・キングダンは、インドで大量に発見された16万3000年前以降の中部旧石器時代の石の道具を指摘している。この解釈で問題となるのは、そのように古い現世人類の骨の証拠はアフリカ以外で発見されていないことである。キングダンは、これらの道具が当時東アジアにいた後期の前現生あるいは旧人類(キングダンは彼らをマバと呼んでいる)にも容易につくれたことを認めている。

オーストラリアへ行くためには、人類はアジアを通ったに違いないが、このような理論では、解剖学的な現生人類が、12万~16万3000年前はおろか9万年以前にアジアに移動したという証拠にはならないのだ。

まとめ

もっとも新しい人類の種としての、わたしたちの究極の起源をめぐる考古学や人類学の論争は、アフリカに現れた最初の現生人類までさかのぼる。途絶えることのないイブ系統の遺伝子の痕跡によって解決できるだろう。遺伝子による証拠のおかげで、人類の祖先の正確な動きにまで焦点をあてることができる。

その結果、ただ1つのグループが7万年以上前にアフリカを離れたことがわかった。

これは、アフリカから複数の移動があったとする従来の見解とは異なるもので、これにより、ただ1つの南ルートから始まる、残りの人類史のすべての移住ルートが定められる。最初の出アフリカの先駆者たちは、南アラビア沿岸からアラビア湾へと移動し、そこで最初の西方のコロニーをきずき、ずっと後代になってからヨーロッパへ殖民した。インドから東方へ向かった旅は、またちがう歴史をつづっていく。