米中戦争という悪夢「トゥキディデスの罠」とは何か【豊島晋作のテレ東ワールドポリティクス】(2022年12月12日)
トゥキュディデスの罠 米中戦争勃発の可能性
古代ギリシャ 「三段櫂船」
米中戦争勃発の可能性は「16分の12」だ! 500年間のケース分析は警告する
2016.9.26 クーリエ・ジャポン
古典的名著『決定の本質』で、いかにしてキューバ危機が起き、いかにして核戦争が回避されたかを解明したハーバード大学の碩学、グレアム・アリソン。
500年間の「支配勢力」と「新興勢力」の争いを分析したアリソンは、紀元前5世紀に大戦争でギリシャを崩壊させた「トゥキュディデスの罠」が現代の国際政治でも発動する、と主張。目前に迫った「米中戦争」のリスクを警告する。
「トゥキュディデスの罠」とは、「新興勢力が台頭し、それまでの支配勢力と拮抗するようになると、戦争が起きる危険性が高まる」という歴史的な経験則である。
古代ギリシャ世界で支配勢力だったスパルタに新興勢力のアテナイが挑んだときも、いまから100年前、支配勢力の英国に新興勢力のドイツが挑んだときも、結果は同じだった。
すなわち大戦争が起きており、その結果、支配勢力も新興勢力も大きな損害を被っている。
https://courrier.jp/news/archives/63030/
「cool-hira トゥキュディデス アテネとスパルタの戦い」画像検索
夜の第10時(3:00‐4:00)――船隊が出航する より
アテネ帝国をひとつにまとめているのは三段櫂船だ。<パラロス>と<サラミニア>のことはだれもが知っている。どちらもその快速ぶりで知られる三段櫂船である。祭儀に参加するだけでなく、この2隻は休みなく海上を行き来して、メッセージや外交使節をエーゲ海の島々の都市に運んでいる(もっとも、聖なる船であろうがなかろうが、いざ戦闘となれば、<サラミニア>も<パラロス>もほかの船とともに戦列に並ぶことになる)。
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船隊指揮官は、この遠征の一部についていささか隠しごとをしていて、そこについてはアテネ当局に伝えていなかった。違法なわけではないが、前もって許可を求めるより、あとで(もし発覚したら)謝罪するほうがいいようなことだ。戦闘用の舳先の下に突っ込んであるのは、油布で包んだいくつかの小さな包み。これは船隊指揮官がおじトゥキュディデスのために人々に話を聞いてきた。その報告者だった。
トゥキュディデスは最近の戦争中、船隊指揮官としてトラキア沿岸に派遣されていた。だがあいにくなことに、戦闘行為に対する当然の用心と計画性をふんだんに持ち合わせていて、そのためある都市を救うのに間に合わなかった。もっと気の短い指揮官ならスパルタの手に落ちるのを防げたであろうということになり、冷淡なアテネ民会でトゥキュディデスは国外追放を命じられたのだ。
それ以来、トゥキュディデスはトラキアにある一族の所領に住んでいる。といっても孤独に過ごしているわけではない。名のあるアテネ人はみな、近くに行ったときは彼を訪ねているからだ。広く知られているように、この強制された閑居状態を利用して、トゥキュディデスは執筆にいそしんでいる。スパルタとの近年の戦争に関する歴史の決定版になるだろう。25歳以上の者はほとんど全員その戦争で戦っていて、そういういう退役軍人の多くがトゥキュディデスのもとを訪れている。自分の果たした個人的な(そして英雄的な)役割について、この歴史家がくわしいことを知りたがるかもしれないからだ。
具体的な詳細が必要となると、トゥキュディデスはアテネ人やトラキア人だけでなく、敵側で戦ったスパルタ人やコリントス人にも話を聞こうとする。どちらにも偏らない客観的な戦争の記録を残したいと考えているのだ。スパルタの横暴に対してアテネが敢然と立ちあがった、ということにしておきたいアテネ当局としては、これはあまりありがたい話ではない。船隊指揮官がいささか後ろめたく思っているのはそのせいだ。父からも話を聞いてきたのだが、それが8年前の戦いの話で、このときアテネ軍は会戦でも、その後のでデリオンの攻囲線でも、デバイに大敗を喫しているのである。アテネ人としては、あの惨敗については忘れてもらったほうがうれしいところだ。
トゥキュディデスは、シュラクサイ遠征の船や兵の備えについても根掘り葉掘り訊いてくrだろう。その質問に、船隊指揮官は「それは極秘です」とぼそぼそ答える。するとおじは、瞬きもせず鋭く睨みつけてくるのだ、不機嫌な鷹そっくりな目で、船隊指揮官はため息をついた。結局、言ってはいけないことまで言ってしまい、それでもトゥキュディデスが満足するほどには話せないと、そういうことになるのはわかっている。潮とか海流とか、忌まわしいゾステル岬のこととか心配ごとがそれだけだったらよかったのだが。
トゥキュディデス
ヘロドトスより一世代あとに生まれたトゥキュディデスは、この先輩とはまったく異なる手法をとった。ヘロドトスが逸話や伝聞を好んで散りあげるのに対し、事実を検証し、できるだけ公平に報告するのが歴史だ、というのがトゥキュディデスの考えだった。彼の業績があまりに大きかったため、ヘロドトスは「歴史資料」と見なされるのに対して、トゥキュディデスについては今日でも、いま席をはずしている同僚のようにしばしば言及する歴史学者がいるほどだ。
トゥキュディデスについてあるていど伝わっているのは、本人が自分で語ってくれているからなのだが、しかし多くを語っているとは言えない。彼は貴族の家に生まれ、前430年に疫病にかかったが、多くのアテネ人が生命を落とすなかでなんとか助かった。船隊を率いてスパルタ軍と戦ったものの、思わしい戦果をあげられなかったため、国外追放となった。前416年のいまは休戦中だが、スパルタとの戦争が再開されると、トゥキュディデスは中立の立場で両者から事情を聞こうとする。戦後アテネに戻ったが、前404年ごろ急死し、彼の『ペロポンネソス戦史』は重要な部分が未完成のまま残されることになった。
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じじぃの日記。
『古代ギリシア人の24時間』という本に、アテネとスパルタ間の戦争のことが書かれていた。
トゥキュディデスとは古代ギリシアの歴史家で、その著書『ペロポンネソス戦史』のなかで、海上交易を抑える経済大国としてアテネが台頭し、陸上における軍事的覇権を事実上握っていたスパルタとの間で対立が生じたことを記述した。
両国間で戦争を回避する試みは何度もなされたものの、最終的にはどちらの国も望まない戦争が勃発してしまった。それが30年近くの長年にわたる戦争、ペロポンネソス戦争であった。そこから、急速に台頭する大国が既成の支配的な大国とライバル関係に発展する際に、当初はお互いに決して望まなかった軍事的な対立に、いずれは戦争に及んでしまうという様子を、米国の政治学者グレアム・アリソンは「トゥキュディデスの罠」と表現した。