Philippides
マラトンの戦いの使者がマラソンよりも長い距離を走ったとされる理由とは?全長520kmにおよぶフェイディピデスの伝令の旅
2019年12月10日 TANTANの雑学と哲学の小部屋
ギリシア軍側の勝利を告げ知らせるために、アテネ軍の使者が走ったとされているマラトンからアテネまでの距離は、直線距離にして約30km、道のりにして40kmほどの長さであったと考えられることになるのですが、
歴史上の資料の記録に基づくと、こうしたマラトンの戦いの際に、アテネ軍の使者が走ったと考えられる実際の距離の長さは、
こうしたマラトンからアテネまでの距離にあたる40kmや、マラソンの距離にあたる42.195kmよりもかなり長い距離であったとも考えられることになります。
https://information-station.xyz/18268.html
昼の第9時(14:00‐15:00)――伝令がスパルタに向けて出発する より
これはあまり知られていない事実だが、健康状態の良好な人間なら長距離競争では馬より速い。馬は人よりずっと重い身体を運ばなくてはならないし、草と穀物で動いている。どちらもとくに出力の大きい食物ではない。しかも馬は賢い動物だから、ひじょうに長い距離を高速で走らせようとしても言うことを聞かない。
ラブラスは伝令だ。ヘメロドロモスと呼ばれる選りすぐりの長距離走者で、馬など不平たらたらの意気地なしだと思っている。優秀な伝令の例に漏れず、年齢は40代前半。顔は真っ黒に日焼けして皮膚は固く、青い目が深いしわに囲まれているのは、いつも遠くの地平線を目をすがめて見るせいだ。
オリュンピア競技祭で最も長距離の徒競争はドリコスだが、それでもたった24スタディオン(4.23キロ)だからただの散歩にすぎない。ラブラスに言わせれば子供の遊びだ。アッティカのどこかの地区(デモス)へひとっ走りとか、至急報をボイオティアのテバイに届けるとかなら、ぜひとも20代の若い男にやらせるべきだ。しかし、スパルタまでの長距離伝令となれば。熟練の走者――精神力と体力を備え、20歳の若造が道ばたにへたりこむような、過酷な走りにも対応できる者――が必要だ。同じ「長距離」と言っても長短さまざまで、ほんとうの長距離走者を育てるには何十年もかかるのである。
スパルタまで伝令に走るとなれば、ペイディッピデス(マラトンの戦いでの走者。アテネからスパルタへの約245km走ったと記されている)を思い出さずにはいられない。いまラブラスが走りだそうとしている同じ道を、ペイディッピデスは70年ほど前(前490年)に走った。当時は危機が迫っていた――アテネを蹂躙してくれようと、ペルシャ軍がマラトンに上陸していたのだ。ペイディッピデスは、スパルタに援軍を頼むために送り出され、歴史家ヘロドトスによれば「出発した翌日」にスパルタに到着したという。
当時の状況を照らして考えてみよう。アテネの評議会場(ブレウテリオン)からスタートして、スパルタの長老会(ゲルシア)の外でゴールしたとすると、ペイディッピデスは1400スタディオン(245キロ)を40時間未満で走らなくてはならない。しかも彼が走ったのはメタゲイトニオン月(8月か9月)、あまりの暑さに、頭のおかしい犬でも真昼の炎天下に出ていくのはためらうような時期である。それに比べれば気候の穏やかな春で助かったとラブラスは思うが、ただ当然のことながら、標高の高いテゲアの峠を越えるときには身を切るような寒さだろう。
スパルタスロン
1982年、ある英国空軍将校がペイディッピデスの英雄的な走りに興味を惹かれ、ひとりの走者がアテネを出発した翌日にスパルタに着くとは、ほんとうにそんなことが可能なのか確認しようと思い立った。答えを知っている者がだれもいないようだったので、彼は自分で走ってみることにし、この245キロを実際に38時間で走りきった。それ以来、このスパルタスロンは一流の長距離走者の試金石となっている。この過酷なレースに挑んだ数百人の走者のうち、コリントス[アテネのある「本土」とスパルタのあるペロポンネソス半島とはコリントス地峡でつながっているが、この地峡を渡るとすぐにコリントス市がある]を越えられた者はほとんどいない。また現代の走者には、その翌日に復路に挑戦した者はひとりもいない。
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
どうでもいい、じじぃの日記。
古代オリンピックは紀元前776年に古代ギリシアのオリンピアで始まったとされている。
オリンピアはゼウス神の聖地であり、オリンピア競技はゼウス神に捧げる競技祭として始まった。
ペルシア戦争のマラトンの戦いで、青年がギリシア軍の勝利を一刻でも早くアテネ市民に知らせようと一度も休まず悪路を走りぬき、「喜んでください、わが軍は勝ちました!」と告げると同時に息絶えたとか。