標準模型よりも重過ぎるWボソン
07 APRIL 2022 Nature Portfolio
Wボソンの質量は、理論の予測よりも重い可能性があることが、過去に行われた実験のデータから分かった。「標準模型」に修正を迫る結果かもしれないと期待されている。
https://www.natureasia.com/ja-jp/ndigest/v19/n7/%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%A8%A1%E5%9E%8B%E3%82%88%E3%82%8A%E3%82%82%E9%87%8D%E9%81%8E%E3%81%8E%E3%82%8BW%E3%83%9C%E3%82%BD%E3%83%B3/114746
ヒッグス粒子の発見――理論的予測と探究の全記録
【目次】
プロローグ
第1章 プリンストンへ――その遥かなる道のり
ヒッグス場に手なずけられた素粒子たち
第2章 原爆の影
科学者に明日は予見できない
第3章 79行の論文
南部陽一郎の論文と出会って
自発的対称性の破れ
CERNに送った論文
第4章 名誉を分け合うべき男たち
千載一遇のチャンスを逃したヒッグス
第5章 電弱理論の確証を求めて
CERN内部の争い
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第11章 「隠された世界」
ヒッグスから届いた手紙
最終章 「新しい粒子」に導かれて
「発見」と「観測」
「発見したのです」
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第4章 名誉を分け合うべき男たち より
数式と曲線で埋め尽された黒板
マックスウェルが電気と磁気を統一したとき、彼の計算は、私たちが光として見ているものの域を超えた「電磁波」の存在を予見していた。科学者たちがマックスウェルに感謝したのは、その理論が正しいことを証明するための「探索の対象」を与えてくれたためだった。
幸運にも、ワインバーグの理論もまた、いくつかの予見をしていた。W粒子とZ粒子と名づけられた、新たな3種の素粒子である。W粒子(Wは”week(弱い)”からの命名)にはW+粒子(正の電荷をもつもの)とW-粒子(負の電荷をもつもの)の2つがあり、Z粒子は電荷を持たない。Z粒子の名前は、電荷がゼロ(zero)であること、そして、Zがアルファベットの最後の文字であることからつけられた。ワインバーグは、Z粒子が弱い力を伝える素粒子の仲間の、最後の1つであることを願ったのである。
第5章 電弱理論の確証を求めて より
CERN内部の争い
フェルミ研究所とブルックヘブンが稼働しなくなった結果、W粒子とZ粒子の発見競争は、CERN内の2つにチームによって争われることになった。カルロ・ルビアとピェール・ダリュラは同じ研究所にいたが、別々の物理学者グループを率いており、互いに異なる検出器を使用していた。
CERN内での競争は、異なる検出器を使う両グループが自分たちのデータを手の内にしっかりと隠し合うものだったが、このことが、一方のチームがある発見をした際に、他の一方が独立した立場で検証・反論できる余地を担保していた。同時に、それぞれのチームがメンバーに忠誠心が芽生え、相手との競争心をかき立てることにもつながっていた。
1982年の夏、CERNの幹部所員は、ある重要な人物の訪問に備えるよう通達を受けた。その人物の名は伏せられていたが、その内容は、万が一にも爆弾が隠されている場合を想定し、装置周辺の徹底検査をするよう物理学者たちを駆り立てるほど強い調子で伝えられた。
VIPの正体は、時の英国首相、マーガレット・サッチャー(1925年~)だった。フォークランド紛争(同じく1982年に起きた、フォークランド諸島をめぐる英国ーアルゼンチン間の主権戦争。英国が勝利)の終結を受けて、人々が落ち着きを取り戻しつつある時期に、彼女はCERNへの私的な訪問を計画したのだった。
サッチャーは、オックスフォード大学で化学者として教育を受けており、自身を科学者仲間の1人として扱ってほしいと求めていた。彼女は、W粒子とZ粒子の探索について、またそれらが、電磁力と弱い力を統一した電弱理論の証拠をいかに補完するかについて説明を受けた。視察のあいだに短いプレゼンテーションを行った。ルビアが率いるチームの科学者であるアラン・アストベリーはこう述べた。
「もし私たちに運があって、サンタクロースが実在するなら、今年の年末までにW粒子を発見するでしょう」
これを聞いたサッチャーはアストベリーに指を向けて、「本当ね」と念を押した。
「1月になったらあなたに電話をして、それを見つけたかどうか確かめるわよ」
彼女は、もし彼が発見し損ねたらどうするかまでに明言しなかった。研究所を発つ前、サッチャーはCERN所長のヘルビッヒ・ショッパー(1924年~)に、その素粒子を発見したらすぐ、個人的に自分に連絡するよう約束させた。「あの方は、そのニュースを報道で知るのが嫌だったんですよ」と、ショッパーは回想している。
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その年のうちに、CERNのチームはW粒子の存在がひょっこり示されたかのように見える、一握りの衝突を判別し終えた。だが、必要となるすべてのチェックを終えるのは、数ヵ月かかる可能性があった。クリスマスが駆け足で迫ってくることに気づき、ヘルビッヒ・ショッパーは、首相官邸のマーガレット・サッチャーを送った。彼はW粒子とZ粒子が見つかったすぐに連絡するという約束を首相に思い出させたあとに、こう綴った。
「この年末のご挨拶と一緒に、そのような発見を本当に成し遂げたというご報告をすべきだったのですが……。しかし、明白な根拠がない中ではありますが、最近得られた結果によれば、発見が差し迫っていることを示していると、確かな自信をもって極秘にご報告できることを嬉しく思います」
ショッパーは、”最終的な、反論の余地のない証拠”が得られ次第、直接連絡することを首相に請け合って、文を結んだ。
ヒッグス粒子はどうふるまうのか
1983年の夏、W粒子の発見が公表されてから6ヵ月後、CERNはルビアのチームがZ粒子を発見したと発表した。その紛れもない痕跡は、1つの電子と1つの陽電子に崩壊するZ粒子であることを示していた。崩壊で生じた電子と陽電子は。即座に高速で離れていった。
その発表の直後、ふたたびダリュラのチームがルビアらによる実験結果を追認することとなった。Z粒子の発見により、人々に感銘を与えたCERNの”ハットトリック”が完成し、同研究所が世界の舞台で戦える有力候補であることに関して、いっさいの疑問を払拭してみせたのである。
W粒子とZ粒子の発見は、物理学者たちが電弱理論を信じるために必要な証拠だった。同時にそれはヒッグスの理論にとっても良いカンフル剤となった。
電弱理論は、ヒッグス機構やそれに非常によく似た理論もまた真実であった場合にかぎり、物理学者を納得させうる。中性カレントの発見から、W粒子とZ粒子の飛跡を初めて記録するまでの小休止期間に、CERNの理論屋たちは、もしヒッグス粒子が粒子衝突型加速器のなかに現れたなら、どのようなふるまいをすると考えられるかを解明していた。
48ページの論文の中で、彼らは警察のモンタージュ写真作成に相当するような物理学の言葉を書き記している。顔の特徴を描写する代わりに、ヒッグス粒子が衝突によってどのようにして生成されるのか、ヒッグス粒子が崩壊するとどのような種類の粒子に姿を変えるか、異なる装置でそれを観測する確率はどれほどか――。
論文の末尾では、生成されたあとのヒッグス粒子がどれくらいの時間そのままの姿でいられるのか、おおよその値を見積もっている。その数値は、600マイクロ秒(6x10-4秒)から10-22秒のあいだになると推定されていた。
CERNのジョン・エリス(1946年~)、メアリー・ゲイラード(1939年~)、ディミトリ・ナノポロス(1948年~)によって書かれたこの論文は、注意書きから始まっている。
「ヒッグス粒子をめぐる状況は、満足のいくものではない。第1に、この粒子が存在しない可能性が強調されるべきである」
そのうえで、粒子衝突型加速器に取り組む実験やたちに対し、ヒッグス粒子の質量がまったくわからないことに関して謝意を表明している。論文は、ヒッグス粒子を探すことの技術的な難しさを予測する話題に言及したのちに、次のように結論づけていた。
「このような理由から、われわれはヒッグス粒子の大々的な実験的探索を推し進めることは望まない。しかし、ヒッグス粒子に対して成果のない実験を行っている者は、その探索方法を知るべきだとわれわれは痛感している」
その論文ほど慎重なものは、他に類を見なかっただろう。だが、それは、どのようにしてヒッグス粒子をとらえるのか、科学者にとって初めてヒントを与えるものでもあった。