じじぃの「科学・地球_532_ヒッグス粒子の発見・新しい粒子に導かれて」

Life@CMS: Combining Higgs search data with ATLAS (November 2011)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jOn5YwrVcE8

ヒッグス粒子探索の総合結果


ヒッグス粒子らしき新粒子の発見!

●ATLAS実験とCMS実験からの ヒッグス 探索レポート(2012年夏)
2012年7月4日、CERNLHC実験の2つの実験グループ(ATLAS実験とCMS実 験は)、ヒッグス粒子探索に関する最新結果を発表しました。両実験ともに 質量125GeV - 126 GeV 付近に新粒子を観測したと発表しました。

名古屋大学N研究室では2006年よりATLAS実験に参加し、 25ナノ秒ごとに起こるビーム衝突が興味のある事象かどうかを、 ATLAS検出器のエンドキャップ部分に飛来するμ粒子を捉える事で オンラインで選別する TGC トリガー検出器に関わってきました。
μ粒子は、下に解説しますように、 今回のヒッグス粒子探索において非常に重要な役割を担っています。 私たちはCERN研究所の現場最先端に立ち、 このTGC検出器のコミッショニング(実験本番での運転にむけての立ち上げ)をはじめ、 この世界最大規模かつ世界唯一の検出器に対して試行錯誤を重ねることで、 高い性能を発揮した状態での長期運転を実現してきました。
今回のヒッグス粒子らしき新粒子の発見は、これまでの私たちの TGC検出器研究の成果を裏打ちする、 1つのマイルストーンだと考えています。
https://www.hepl.phys.nagoya-u.ac.jp/news/docs/higgs2012/Higgs2012.html

ヒッグス粒子の発見――理論的予測と探究の全記録

【目次】
プロローグ
第1章 プリンストンへ――その遥かなる道のり
 ヒッグス場に手なずけられた素粒子たち
第2章 原爆の影
 科学者に明日は予見できない
第3章 79行の論文
 南部陽一郎の論文と出会って
 自発的対称性の破れ
 CERNに送った論文
第4章 名誉を分け合うべき男たち
 千載一遇のチャンスを逃したヒッグス
第5章 電弱理論の確証を求めて
 CERN内部の争い
第6章 野望と挫折
 ブッシュ‐宮沢会談の裏で――頓挫したSSC
第7章 加速器が放った閃光
 「君はヒッグス粒子を見つけたのかね?」
 追い詰められたLEP
第8章 「世界の終焉」論争
 素粒子物理学界を揺るがした2通の投書
第9章 “幻影”に翻弄された男たち
 「5σ」の壁
第10章 「発見」前夜
 「神はヒッグス粒子を嫌っている」
第11章 「隠された世界」
 ヒッグスから届いた手紙
最終章 「新しい粒子」に導かれて
 「発見」と「観測」
 「発見したのです」

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ヒッグス粒子の発見』

イアン・サンプル/著、上原昌子/訳 ブルーバックス 2013年発行

プロローグ より

「神の粒子」を蔑視した科学者たち

大型ハドロン衝突型加速器LHC)はピーター・ヒッグスが思い描いた”ヒッグス場”の本当の性質を完全に明らかにするために設計された。その装置は、「ヒッグス粒子ヒッグスボソン)」と呼ばれる素粒子として現れる、ヒッグス場の中の”波”を作り出さなくてはならない。ヒッグス粒子は、私たちの宇宙という雪原をつくっている雪片であり、科学者が、物に重さがある理由をすっかり説明するために必要な決定的証拠なのだ。

その素粒子を追い求めてきたのは、CERNだけにとどまらない。アメリカのシカゴ郊外にあるフェルミ国立加速器研究所(Fermilab)には、世界第2位を誇る強力な加速器があり、そこにいる科学者たちは、ヒッグス粒子の検出を最優先課題に掲げている。大西洋の対岸にあるこれら2つの研究所にとって、数千年にわたる探索は、現代物理学における最大の競争となってきた。

最終章 「新しい粒子」に導かれて より

歴戦の強者たちが一堂に会して

警備員たちは、午前7時30分に人々を講堂内に入れた。収容人数と折り合いをつけるため、一度に10人ずつが数えられた。座席の前半分は、CERNの重要人物と招待者のために取っておかれていた。

その日、最前列の少なくとも4席は、かつての所長のために用意されたもので、その中には、1994年に大型ハドロン衝突型加速器LHC)の建設を承認したクリス・リュウェリン・スミスも含まれていた。その巨大な装置の建設を監督したリン・エバンスの姿もあり、彼の後ろには、衝突した粒子の破片の中からヒッグス粒子をどのように発見するかを、1976年に物理学者たちに示したジョン・エリスが座っていた。

会場には、ヒッグス粒子探索の物語の初期に果たした役割を明確にたどれる人たちも臨席していた。ジョン・エリスの2席後ろに座っていたのは、白いあごひげをたくわえ、黒縁の眼鏡をかけたフランソア・アングレールだった。1964年6月に、ロバート・ブラウトとともに、のちにヒッグス機構と呼ばれるようになった理論に関する最初の論文を書いた人物である。しばらくのあいだ闘病生活の続いたブラウトは、LHCにおいてヒッグス粒子の最初の兆候が現れる前の2011年5月に亡くなっていた。
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彼らから遅れて部屋に入り、まさしく”センチュリーを達成したバッツマン”を讃える拍手に迎えられて歩いてきたのは、83歳になったピーター・ヒッグスだった(クリケットにおいてバッツマンと呼ばれる打者が1人で100得点すること=「センチュリー」が”偉業”とされることから、ヒッグスの功績をこれになぞらえた表現)。ピーター・ヒッグスは、グラーリニクとハーゲンの後ろに座った。
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”ショー”が始まろうとしていた。正面近くでは、前夜はゆっくり寝た物理学者たちが、そしておそらく、ヒッグス粒子の探索に取り組んできた彼らのこれまでの仕事が、一言一句を待ち構えていた。ホイヤーは、会場に集まったすべての人たちに歓迎の意を述べ、メルボルンから見守る何百という物理学者たちに参加への感謝の言葉を述べた。両手で抱くようにマイクを握った彼は、話をこう切り出した。
「今日は、特別な日です」

「発見」と「観測」

ピーター・ヒッグスは穏やかな1日を送った。
ジェームズ・ギリースが自分のオフィスに彼を招き、外部に漏れていないのは、CERNの一部にすぎないのだと打ち明けた。誰かが、ピーターにCERNがその翌日に出す予定のプレリリースを手渡した。さっと目を通したヒッグスはその後、ちょっとしたインタビューを録画した。CERNはそれを、何とか外部に漏れないようにした。

そのプレリリースの中で、ファビオラとジョーは「5σ」の信号について言及していたが、「発見」という言葉は決して使わなかった。その言葉は、ロルフ=ディーター・ホイヤーの話の中で、たった一度だけ出てきただけだった。彼は、「物理学者たちが、自然界を理解するうえでの重要な節目に到達した」と述べた。「ヒッグス粒子に一致に粒子の発見は、より詳細な研究につながる道を切り開き……、私たちの宇宙に存在する他の謎にヒントを与える可能性があります」と書かれていた。

前もってそれを読んでいたヒッグスは、ビデオの中でそれに応じた反応をすることができた。「私はその助けを借りて、幸せそうに見えるようにしなければなりませんでした」と、数ヵ月後に彼は話した。「私はうまくやったと思いますよ。それは、私の初めての公式な反応でした」
プレリリースの中の言葉遣いは些細なことに思われるかもしれないが、何日もの議論の末にようやくたどり着いた結果だった。その議論は、インカンデラやファビオラ、ホイヤー、さらにはそれについて相談を受けたCERNの科学政策委員会委員長であるファビオ・ズウィルナーのあいだでの聞き取りやEメール交換で意見が求められたが、当時、関わっていた物理学者たちの心理と、現代における素粒子物理学の行なわれ方について多くを物語っている。

ATLASとCMSのチームは、いくつかの理由で、”discovery(発見)”という言葉を使うのを心地よく思わなかった。素粒子物理学では「5σ」という統計的優位性を伴う結果は、”observation(観測)”とされるのに十分な強度があるとされ、ほとんどの状況において、正式な”discovery”に等しいと思われている。実質的には、5σという結果がまったくの偶然で起こる確率は、300万分の1だからだ。

それではなぜ、それを口に出して「発見」と呼ばないのか?
1つの理由としては、それが、たとえば最も純粋な科学の理想に沿わない響きをもっているためだ。「観測」という語は中立で、事実を客観的述べており、単純に好ましい言葉だ。しかし、プロセスの問題もまた関係している。慎重な科学者は、その論文が学術誌に掲載されるときだけ、つまり、結果が肩癖に精査され、査読されて承認された後にだけ、正式な発見を主張する傾向にある。今回のセミナーの自転では結果は予備的なもので、論文掲載の準備はできていなかった。

もう1つの理由は、ATLASとCMSがちょぅど今、魔法の5σレベルに達したばかり、すなわち、その範囲内に到達したばかりだったからだ。解析は無謀な速さで行われ、両チームはそれらを信用する時間を必要としていた。その背景のどこかに潜んでいるのは、世界のメディアから丸見えの場で間違いを犯した場合の代償を意識してのことだった。
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ジョーとファビオラが、ホイヤーとセルジオベルトルッチに会ったとき、CERNのプレリリースの最終的な言葉の遣い方が明らかにされた。どちらのチームも「発見」という語を使用しないこと。けれども、2つを合わせた結果に基づいて、ロルフはその単語を使用することができることに彼らは同意した。それは筋が通っていた。彼らが同意した言葉遣いがどうであれ、その発見が影響力をもつとき、歴史がそのセミナーを忘れないことは確実だった。