じじぃの「科学・地球_523_ヒッグス粒子の発見・ヒッグス機構」

【知って楽しむ科学】4つの力⑤~弱い力って何?弱い力の不思議やニュートリノヒッグス粒子

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NI5P9rK03p4


ヒッグス粒子発見の本当の意義

2013年1月30日 大栗博司のブログ
幻冬舎新書 『強い力と弱い力 ― ヒッグス粒子が宇宙にかけた魔法を解く』 が出版されました。店頭にも並んでいるそうです。
本書は、「質量とは何か」とか「力とは何か」といった基礎のところから説き起こし、40名以上のノーベル賞受賞者を含む数多くの物理学者が何世代もかけて築き上げた素粒子標準模型の全貌を解説し、ヒッグス粒子発見の本当の意義を理解していただこうという野心的なプロジェクトでした。
https://planck.exblog.jp/19199546/

ヒッグス粒子の発見――理論的予測と探究の全記録

【目次】
プロローグ
第1章 プリンストンへ――その遥かなる道のり
 ヒッグス場に手なずけられた素粒子たち
第2章 原爆の影
 科学者に明日は予見できない
第3章 79行の論文
 南部陽一郎の論文と出会って
 自発的対称性の破れ
 CERNに送った論文
第4章 名誉を分け合うべき男たち
 千載一遇のチャンスを逃したヒッグス
    ・
第11章 「隠された世界」
 ヒッグスから届いた手紙
最終章 「新しい粒子」に導かれて
 「発見」と「観測」
 「発見したのです」

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ヒッグス粒子の発見』

イアン・サンプル/著、上原昌子/訳 ブルーバックス 2013年発行

第4章 名誉を分け合うべき男たち より

数式と曲線で埋め尽された黒板

ワインバーグの研究は、今日の科学者が「電磁力」と呼んでいるものを説明していた。彼の計算は、宇宙誕生のとき、電磁力と弱い力が結びついていたことを明らかにしていたのだ。その後、宇宙が膨張して冷え始めたとき、2つの力は、現在私たちが認識しているような別々の存在として引き離された。

ワインバーグの大発見は、ヒッグス機構を中心に構築されたものだったことで、なおさら意義深いものとなった。電磁力と弱い力を引き離したものの正体こそ、ヒッグス場だったからである。

マックスウェルが電気と磁気を統一したとき、彼の計算は、私たちが光として見ているものの域を超えた「電磁波」の存在を予見していた。科学者たちがマックスウェルに感謝したのは、その理論が正しいことを証明するための「探索の対象」を与えてくれたためだった。

幸運にも、ワインバーグの理論もまた、いくつかの予見をしていた。W粒子とZ粒子と名づけられた、新たな3種の素粒子である。W粒子(Wは”week(弱い)”からの命名)にはW+粒子(正の電荷をもつもの)とW-粒子(負の電荷をもつもの)の2つがあり、Z粒子は電荷を持たない。Z粒子の名前は、電荷がゼロ(zero)であること、そして、Zがアルファベットの最後の文字であることからつけられた。ワインバーグは、Z粒子が弱い力を伝える素粒子の仲間の、最後の1つであることを願ったのである。

ヒッグス機構は、ワインバーグの電弱理論を機能させるために重要な役割を果たしていた。ヒッグス場は、W粒子とZ粒子に質量を与えることによって、電弱力を2つに分けていながら、一方で光子は質量のないままににしている。光子がいまだ質量をもたない結果、電磁波は非常に遠くまで光速で進むことができるのだ。

これとは対照的に、新たに与えられた質量のせいで、W粒子とZ粒子はほとんど動くことがない。したがって、弱い力はごく短い距離でしか作用できないのだ。科学者たちはのちになって、クォークと電子もまた、ヒッグス場にとられられることで質量を与えられたことに気づくことになる。

電磁力についてのワインバーグの論文は、その翌月の1967年11月に発表された。それは、素粒子物理学史上、最も引用される回数の多い論文となった。

千載一遇のチャンスを逃したヒッグス

ワインバーグの論文が公表された翌1968年、インペリアル・カレッジ・ロンドンの理論物理学教授で、のちにイタリアにある国際理論物理学エンター所長になったアブドゥス・サラムが、本質的には同じ理論を独自に発表した。ワインバーグとサラムがそれぞれに考え出した理論はいずれも、ブロンクス科学高校でワインバーグのクラスメートの1人だったシェルドン・グラショー(1932年~)によって1961年によく似た機構をもっていた。

グラショーは、電磁力と弱い力を一体化する理論の概略を書いていた。その理論は、W粒子の存在を予測していたが、大切な部分を欠いていた。ヒッグス機構を含めていなかったのである。ヒッグス機構が学術誌に掲載されるには、まだ3年を待たなければならなかった時期で、ヒッグス機構なくしてグラショーの理論は機能しえなかった。
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1979年、グラショーは世間の耳目を集めた講演の中で、物理学に対する自身の貢献にういて振り返った。その中で彼は、ヒッグスや、質量の理論に取り組んだ他の物理学者たちが、電磁力と弱い力の統一に必要な、きわめて重要な最後のピースを掴(つか)んでいることに、なぜまったく気づかずにいるのか訝しんだ。グラショーはヒッグスやその他の物理学者たちと、実にたくさんの会話を交わしていたからである。

「私は、自分の(統一)モデルについて彼らに語るのを怠ったのだろうか? さもなければ、ただ単に彼らがそのことを忘れてしまったのか?」――彼は、講演の参加者たちに問いかけた。理由はどうあれ、ヒッグスらがチャンスを逃したためにワインバーグがヒッグス機構の利用法を見出すまで、物理学者は7年もの年月を待たなければならなかったのである。

ワインバーグの大発見を聞きつけたとき、ヒッグスはエディンバラに戻って1年が経ったばかりだった。彼はそのニュースを複雑な思いで聞いた。ヒッグスは私に、こう語っている。
「私は、誰かが自分の理論の賢明な利用法を見つけてくれたことが嬉しかった。でも同時に、言葉にするまでもないほど、がっかりしていました。当時の私は、自身の理論をあらゆることに同時に適用しようと試みていましたが、それが間違いだった。誤った適用に仕方に、私の頭はいっぱいになっていたのです。グラショーと私は、ただコミュニケーションに失敗したのです」

それ以上に驚きだったのは、その答えに対して、グラショー自身がワインバーグに先んじることがなかった事実だ。質量に関する理論を書いた6人の物理学者たちは当時、最も重要な物理学誌にその論文を掲載している。それらは、グラショーの研究のわずか数年後には活字になっているのだ。しかし、グラショーが、彼らの論文を見過ごしていたとしても、彼はヒッグスの理論を1966年にはすでに学んでいたはずだ。

グラショーは、ヒッグスがプリンストンの高等研究所で講演した翌日、ハーバード大学でその理論について話したとき、その聴衆の1人だったのである。グラショーは、講演の後にヒッグスと話をして、彼の理論が気に入ったと感想を述べてさえしている。「彼は、それが自分に関係のあることだといったようすをまったく見せていなかった」とヒッグスは述懐している。グラショーはのちに、電弱力について自身が行った研究を「まったく忘れていた」と認めたのだった。