じじぃの「歴史・思想_634_逆説の日本史・中華民国の誕生・南方熊楠」

南方熊楠 みなかたくまぐす (1867―1941)

日本大百科全書(ニッポニカ) より
生物学者民俗学者和歌山県に生まれる。博覧強記、国際人、情熱の人として、日本を代表する人物の一人に数えられる。大学予備門(東京大学教養課程の前身)を中途退学してアメリカ、イギリスに渡り、ほとんど独学で動植物学を研究。イギリスでは大英博物館で考古学、人類学、宗教学を自学しながら、同館の図書目録編集などの職につく。
1900年(明治33)に帰国後は和歌山県田辺(たなべ)町(現、田辺市)に住み、粘菌(ねんきん)類(変形菌類)などの採集・研究を進める一方、民俗学にも興味を抱き、『太陽』『人類学雑誌』『郷土研究』『民俗学』『旅と伝説』などの雑誌に数多くの論考を寄稿し、民俗学の草創期に柳田国男(やなぎたくにお)とも深く交流して影響を与えた。まとまったものとしては『十二支考』などが著名。

1929年(昭和4)には田辺湾内の神島(かしま)に天皇を迎え、御進講や標本の進献などを行う。南方没後の1962年(昭和37)両陛下南紀行幸啓の際、神島を望見した天皇は「雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」という御製を詠んで追懐した。和歌山県白浜町には南方熊楠記念館がある。

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『逆説の日本史 27 明治終焉編 韓国併合大逆事件の謎』

井沢元彦/著 小学館 2022年発行

第2章 「好敵手」中華民国の誕生 より

独学で大英博物館のスタッフに迎えられた博覧強記の学者・南方熊楠

孫文がロンドンで邂逅(かいこう)した日本人、南方熊楠とはいったい何者か?
多くの日本人は、孫文との関わりでは無く在野の学者としての南方熊楠を認識しているのではないか。一種の奇傑としてだが、あの『ゲゲゲの鬼太郎』で有名な水木しべるも、漫画で『猫楠 南方熊楠』(KADOKAWA刊)を描いている。

日本大百科全書(ニッポニカ) に「南方熊楠」に登場する「天皇」とは昭和天皇のことだが、私も昭和天皇の御製(ぎょせい)をすべて読んだわけでは無いが、個人のフルネームそれも歴史上の人物以外の者を読み込んだ和歌が他にあっただろうか。あったとしても、きわめて珍しいことには違い無い。昭和天皇自身も優秀な生物学者であったが、よほど「ウマ」が合ったのではないかというのが私の想像である。とにかく独学で大英博物館のスタッフとして迎えられるだけの学識を身につけた男である。

孫文と「奇傑」熊楠との邂逅が生んだ新国家建設の「設計図」

熊楠はいわゆる「大学出」ではない。特定の師匠もおらず独特の人間である。しかし、その学識は当時世界の中心国家であったイギリスの大英博物館の人々が舌を巻くほどのものであった。おそらく新しい国家を作るための「設計図」をつくるためであろう、大英博物館に足しげく出入りしていた孫文は、その館員の紹介で熊楠と出会った。孫文大英博物館の人々に認識されたのも、例の清国領事館に監禁された事件が大きく報道されたからであった。先に述べたように、あれは「油断するにもほどがある」出来事で、彼を取り巻く人間の助けが無ければ生命を失っていたほどの危機だったのだが、それを「災い転じて福tなす」力が孫文にはあった。強運と言ってもいいだろう。やはり大事を成す人間には、必ずこうしたツキがあるようだ。ちょうどその時大英博物館南方熊楠がいたのも、彼を孫文に紹介しようと考えた大英博物館の職員(東洋図書部長ロバート・ダグラス)がいたのも、そうしたツキのうちかもしれない。なぜなら、孫文は熊楠との邂逅によって「設計図」のヒントをつかんだと考えられるからだ。
   
  孫逸仙と初めて[ロンドンの]ダグラス氏の室であいしとき、一生の所期はと問わる。小生答えて、願わくば我々東洋人は一度西洋人を挙げて悉(ことごと)く国境外へ放逐したき事なりと。逸仙失色せり。(柳田国男への手紙)
   
ちなみに、これまで「彼」のことをすべて孫文と表記しておりこれは本名なのだが、英語圏では一般にはSun Yat-senという名で知られていた。それを漢字で表記したものが孫逸仙である。

熊楠と孫文との交流は、想像では無く「ウマが合った」ものであった。その証拠に、孫文と熊楠はその後も頻繁に会っている。日本海軍がイギリスに発注し完成した戦艦『富士』を受け取りに来た時、熊楠の名声を聞きつけた海軍から招待の声が掛ったのだが、その時孫文も同行し見学をしているのである。問題は前掲書の著者も述べているように、はじめて孫文に会った時に熊楠はなぜ「悉く外国人を放逐する」などという、まるで攘夷浪人みたいなことを言ったのか。また、それを聞いた孫文は本当に「色を失った」のか。研究者によっては熊楠の発言はともかく、それに孫文が慌(あわ)てふためくようなことは無かったと考える人もいる。それは熊楠は「鬼面(きめん)人を驚かす」ことが大好きな性格であり、初対面である程度有名人でもあった孫文に「一発かました」可能性はあるが、孫文孫文でものに動じない性格であるから熊楠の行動は空振りだったと考えるわけである。
とにかく、2人が頻繁に会っていたのは事実だ。熊楠は、可能な限り新しい国家を建設するために必要な知識や見聞を孫文に与えようとしてした。戦艦『富士』を見学させたのもそのためである。当時、『富士』は日本海軍いや世界でも最新鋭の戦艦であった。そして、あらゆる学問に通じていると過言では無い熊楠に、孫文は新しい中国を作るためにはどのような思想が必要かを尋ねたに違いない。実際、後年孫文が日本を訪問して新しい中国の「かたち」を述べた時に、熊楠はそれは自分のアイデアであるといったような感想を漏らしているのである。
このことはいずれ詳しく触れるが、結局孫文は熊楠の導きによって日本に渡り、しばらくのあいだ横浜を拠点とした。じつは、熊楠はこの後その熱血漢的性格が災いして、彼の学識を妬(ねた)み「いじめ」を仕掛けてきた大英博物館館員にケガをさせるという事件を起こしてしまい、それがもとで大英博物館を追放され日本に戻るのだが、戻った熊楠が横浜にいる孫文に帰国を知らせると、大変喜んだ孫文はわざわざ横浜から熊楠の実家のある和歌山に駆けつけているのだ。両者の交流がいかに深かったか、この事実をもってしても明白だろう。
さて、読者は宮崎滔天のことを覚えておられるだろうか。