ローマ旅行ガイド | エクスペディア
サン・ピエトロ大聖堂 Basilica di San Pietro in Vaticano 訪問の予備知識
2017.10.03 きらりの旅日記
ヴァチカン市国【世界遺産】サン・ピエトロ大聖堂 Basilica di San Pietro in Vaticano ・・・とは?
訪問に供えて基本的な知識をサラッと復習しておきましょう(^0^)b
https://plaza.rakuten.co.jp/hoshinokirari/diary/201710030000/
【著者インタビュー】横道誠『イスタンブールで青に溺れる 発達障害者の世界周航記』/発達障害の診断前に体験した海外旅行を、障害の特徴とともに振り返る
2022/06/16 P+D MAGAZINE
https://pdmagazine.jp/today-book/book-review-969/
はじめに より
僕は、自分の過去に体験した海外旅行について(最後だけ国内旅行)、本書に記述してみた。
僕が熱心に海外を旅したのは20代後半から30代前後のこと、つまりいまから10年以上の前のことだから、本書は青春の記録にもなっている。
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世界のさまざまな街を旅するたびに、あるいは旅を思い返すたびに、僕が親しんできた世界文学のさまざまな場面が二重写しの像を投げかけてくる。だから僕のこの世界周航記は、「世界文学の体験記」とも言える。旅に関して思い返されてくるのは、必ずしも楽しいこと、愉快なことばかりではない。けれども、それらの楽しくない、あるいは不愉快な思い出たちも、苦しく閉ざされた、疲労感の多い日常を突きやぶる契機を有しているはずだ。
本書に書かれている内容は、僕自身のきわめて個人的な体験にもとづく思いのあれこればかりだけれど、僕の考察が読者の参考になれば、ありがたい。発達障害者の当事者は、障害との付き合い方、いなし方へのヒントを見つけることができるかもしれない。「普通の人たち」、定型発達者には、発達障害に対する認識を更新する機会となれば、うれしく思う。
Ⅱ うねる創造力の彼方へ より
12 廃墟の文体 ローマ
ローマではトレヴィの泉やスペイン広場を観て、当然のように『ローマの休日』とオードリー・ヘプバーンを思いだした。ヘプバーンのグッズも売られていた。もっとも、ヘプバーンのグッズは世界中のあちこちの観光地で売られている。北海道でもないのに、マリモのおみやげが売られているのを眼にすることがあるように。
ヴァティカン市国に入るために、行列に並んだ。ピオ・クレメンティーノ美術館でラオコーン像に眼をみはった。この像の迫力をめぐって、かつてさまざまな論争が展開され、哲学者のディドロは史上最高の彫刻と見なしていた。
サン・ピエトロ大聖堂は美しかった。踏みしだく大理石がやわらかく感じられるほどに優雅だった。
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廃墟は僕にとって本質的な意味を持っている。それは、僕は自分が書く文章を廃墟として構築しているからだ。この本もまた廃墟の集積体だ。
小学生の時点で、自分の書く文章が自分の読む本のようには巧みでないことが奇妙に感じられた。識字率が完璧に近い日本では、誰でも文章は書ける。僕にも書ける。しかし、文章が魅力的ではない。なぜだろうか。
あなたは当たり前のことと考えるだろうか。たとえばたくさん音楽を聴いてもうたがヘタな人はいる。僕がそうだ。誰かとカラオケに行くのがイヤだ。まれにひとりで行くことがあるが、歌ってみると、やはり音痴なので、虚しくなる。
とはいえ、僕は楽器が演奏できないから、歌がまずいのはなんとなく納得できた。音楽の才能に恵まれていないのだと思えた。楽器を練習しても楽しいと感じられなかった。そこには苦痛と不満だけがあった。
文章を書くことは、そうではなかった。書くとすぐさまのめりこみ、文章のうまい人がうまい文章を書いているような錯覚があった。それなのにできあがった文章はヘタだった。不思議! 僕は書字がぐちゃぐちゃなのだが、稚拙な印象は書き文字の問題だけではない。何かがおかしかった。
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僕の中二病は、いまでは思春期特有のものだったわけでなく、自閉症スペクトラム症と注意欠如・多動性に由来していると知っている。発達障害があると、生涯かけて思考が幼くなりがちだ。よく言えばいつまでも若者めいている。だが肉体は老けていくから、「幼稚なおじさん」になっていく。僕は典型的にそうだ。
物語を作ることは諦めたが、さまざまなエッセイを読むうちに、そういうものなら書けそうな気がした。エッセイは完全な作り話でないところが良い。現実が僕を助けてくれる。絵も本格的にうまくなるのは無理でも、「ヘタなんだけど、独特の味がある」ものなら、めざせるかもしれないと思った。そこで高校でも大学でも、エッセイやへたうまイラストを描くことにした。
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30代なかばになって、生まれて初めて日本語の書き方がわかりだした。
いま思うのは、僕の文章が腐っていたのは、「生き生きさせる」ために無理していたからだということだ。僕は実生活で、いつも「なぜ自分はみんなと違うのだろう。みんなのようにしなくては」とあがいていた。僕はいつも「なぜ自分はみんなと違うのだろう。みんなのようにしなくては」とあがいていた。「だから生き生きしなくてはならない」と焦った。
それはまちがった考え方だ。少なくとも僕の流儀ではないと言う意味で、まちがっていた。30代なかばになった僕は、自分が部分的にだが回復不可能に破壊され、部分的にでも死滅し、後戻りできないことを認めるようになった。発達障害の診断を受ける数年前のことだ。
僕はローマを歩いたときのことを思いだし、ジンメルが納得できるような廃墟を自分が体験すれば良いのだと考えた。ジンメルの言葉で言えば、「消えてしまったりこぼれたり」している、なかば死にながら生きているのが僕の生のありようなのだ。だから廃墟としても僕を、廃墟としての文章で表現するならば、それは妥当なものになるはずだ。
そのように心を定めて、僕は自分の文章を健康なものへと回復させた。それは病気を孕(はら)んだ健康、死を内包した生を体現する文章だ。うまい文章とは言えないかもしれない。それでも自分なりに、これは僕の声そのものだと納得できるようになった。そうして母語の日本語と出会いなおすことができた。
僕は、自分を侵食しているものを自分の文章に含めながら書かなければならないことを悟ったとも言える。自分を侵食しているもの、それが何か僕は長尾あおだ言語化できなかった。自分の文章に納得できるようになっても、言語化できないまま、数年が過ぎた。
言語化できるようになったのは、40歳で発達障害者の診断を受けてからだ。
「みんな水の中」
僕を侵食しているのは、みずからを包んでいる死の「水中世界」だった。そして、僕の発達障害の特性と周囲の環境が摩擦を起こすことで立ちあがるさまざまな障害だったのだ。
そのように思いたって、僕は自分が体験したさまざまな旅行について、向きあおうという思いが生いたつのを感じた。凡庸な体験ばかり経ていたつもりだが、じつはやはり唯一無二だったはずだと考えを改めた。
そうして本書が生まれることになった。