じじぃの「科学・地球_484_温度から見た宇宙・生命・体温・温度計の発明者」

Museo Galileo, Florence, Tuscany, Italy, Europe

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=sldYM02Q9ws

Galileo Museum - Florence


History of Science Museum - Galileo Museum - Florence

Since 1930 the seat of the museum is in the old palace, restored several times down the centuries, that takes ist name from ist last owners, the Castellanis. The museum displays a very accurate and important collection of scientific instruments, the proof that interest of Florence in science from the 13th century onwards was as great as its interest in art.

The museum also exhibits the Galileo’s original instruments, the thermometers belonging to the "Accademia del Cimento" (1657-1667), the microscopes and meteorological instruments. The second floor (10 rooms) shows a large number of very interesting and beautiful instruments, mostly belonging to the Lorraine family.
http://www.museumsinflorence.com/musei/History_of_Science_museum_rooms.html

『温度から見た宇宙・物質・生命――ビッグバンから絶対零度の世界まで』

ジノ・セグレ/著、桜井邦朋/訳 ブルーバックス 2004年発行

第2章 尺には尺を より

最初の火花

ホモ・サピエンスの祖先のうち、どの種が火をおこす術を身につけたのか、あるいは、いつ最初の火が燃やされたのかについてはわからない。わかっているのは、私たちがアウストラロピテクス族の類人猿の子孫であるということだけである。
アフリカ中南部に出現した私たちの祖先は、500万年ほど前にチンパンジーから分岐して、その進化の道筋を、アウストラロピテクス・アナメンシスから、同アファレンシス、次いで同アフリカヌスとたどったのであった。この最後の祖先は背丈が120センチメートル、体重30キログラム足らずで、脳の大きさは私たちの3分の1であった。人間というよりも、チンパンジーにずっとよく似ていたが、骨盤の形はすでに、挙を地につけて動くよりも直立して歩くように変わっていた。
その後、およそ250万年前に、もう一度分岐が起こった。初期のいくつかの類人猿は絶滅してしまったが、一種が生き延び、進化して反映し、ホモ・ハビリスから、ホモ・エレクトスへ、そして遂にホモ・サピエンスへと変異した。
    ・
鉄は2段階で精錬する必要があるため、単に火で灼(や)くだけではだめで、大変な改良を必要とした。地中にある鉄は普通、酸化鉄の状態で見つかるので、鉄の精錬の第一歩は、酸素を追い出すことである。還元として知られるこの過程は、実際には炉に酸素を送り込んで820度Cの温度で進められる。送りこまれた酸素は、燃える木炭の中の炭素と化合して一酸化炭素を生成する。この一酸化炭素が酸化鉄から酸素を奪い、二酸化炭素を作る。この二酸化炭素は注意深く排気され、あとに鉄が残る。
だが、この最初の鉄には、まだいろいろな不純物が含まれている。第2段階でこれをさらに加熱すると、溶融した鉄から鉱滓(こうし)が浮かび上がり、それを流し出すと、あとに純鉄が残る。この最終段階では温度は、これら不純物の融解温度以下で、かつ鉄の融解温度の1500度C以下にしなければならない。文明のこの段階を、私は、1400度Cの温度で表現することにする。
人類がおこした火は、多くの地域で今から2000年ほど前までには1400度Cに達した。その後1600年間にわたって、あまり大きな進歩は、少なくとも西洋社会ではほとんどなかった。だが、以後、温度の測り方に著しい進歩があったおかげで、事態は急変したのであった。

温度計の4人の発明者

17世紀初めは、さまざまな測定器具が発明された時代であった。この時代に、望遠鏡、顕微鏡、温度計、それからやや遅れて、振り子時計が発明された。だが、測定に科学的意義があるのは、測定の結果が何らかの証明や反証に役立つ時だけである。そのため、発明の名誉は測定を意義あるものとした人に与えられるべきであり、器具の発明者に対してではない。しかしながら、こうした科学的な観察や発見は、測定器具なしには得られるものではない。
温度計の歴史は、その発明がすぐには人類の世界観を変えなかったという意味で、望遠鏡の歴史よりも、顕微鏡の歴史に似ている。直ちに偉大な発見がなされたわけではなかった。これから、これら3種の器具について比べてみるとしよう。
最初の望遠鏡は、1600年頃に、オランダのメガネ製作者によって考案されたが、先ほどの定義にあてはめれば、望遠鏡は、ガリレオが1610年1月7日、それを空に向けた時に発明されたものだった。
    ・
顕微鏡も、17世紀の初めにオランダのレンズ職人により発明されたが、単なる珍品以上のものとはならず、裸眼では見えない世界へののぞき窓にすぎなかった。ロバート・フックが、この新しい装置を初めて広く活用させた。
1665年に、彼は『ミクログラフィア』を出版したが、この本はヨーロッパでベストセラーとなった。この本の中で、ハエの眼やノミの解剖結果など、フックは顕微鏡で見た驚くべきことがらについての図を示した。また彼は、コルクについても研究し、コルクが細胞という微細な構造からなると述べた。しかしながら、顕微鏡は、応用や目的もなく、単なる好奇の対象の対象にとどまったのである。
もしアイザック・ニュートンの怒りを買っていなければ、フックの名声はもっとかなり大きかったはずだ。ニュートンの『プリンキピア』を読んだフックは、重力に対する逆二乗法則のアイディアは自分から盗んだものだと主張した。フックはニュートンとは独立にこのアイディアをもっていたし、地球に向かって物体が落下する現象が、地球が太陽に向けて落ちるのと同種の運動であることにも気がついていた。しかしフックは、ニュートンとは違い数学的才能に欠けていた。この才能がニュートンをして、惑星運動に関するケプラーの法則の原理を明らかにすることを可能にしたのであった。
微分法の発見をめぐってライプニッツと争ったことからわかるように、並の喧嘩好きではなかったニュートンは、『プリンキピア』からフックについての記述を削除し、フックを雇用していた王立協会との関わりをすべて断った。そして、1703年のフックの死後、彼は王立協会の会長に就任した。ニュートンが会長になった時、王立協会にかかっていたフックの肖像は、不思議なことに消えてしまった。

さて、温度計についてだが、熱は1600年以前から研究されていた。ビザンチンの科学者フィロンは紀元前2世紀に、気体の膨張と収縮について考察しているし、その200年後には、アレクサンドリアのヘロンが、『気学』と呼ばれる本を書いている。
ルネサンス時代にラテン語に翻訳されると、この本は再び評価され、何度もイタリア語版が版を重ねて出まわった。ガリレオは1594年に、この本を読んでいる。ヘロンの実験の中には、サーモスコープと呼ばれた装置を使ったものがあり、この実験は、気体を熱したり冷やしたりした時の変化を示そうとするものだった。例えば、気体を密閉容器に入れてその容器の上に水を張り、気体を加熱したところ、気体が膨張し、水が上昇したのである。この種の現象は何らかの形で温度と関係しているが、必ずしも測定に結びつくものではなかった。
皮肉なことだが、自分で発明したわけではない望遠鏡に関する功績によって名声を得たガリレオは、やはりほとんど使わず大きな貢献もしていない温度計の発明者としても名声を博している。しかし、他に少なくとも3人の人物が、ガリレオと同様の発明を行っている。望遠鏡の場合と同様に、何人かが同時に、ほぼ同じアイディアを抱いていたのだった。
    ・
現在ではデジタル機器が優勢だが、今も使われている一般的な温度計にはガラス管に封入した液体が使われており、管の外側にはスケールが彫りこまれている。1700年頃の昔にすでに使われていた水銀は、管内に封入する一般的な液体だが、温度計の中には、水銀の代わりにアルコール、種々の溶液、あるいは水さえも使っていたものもあった。こうした温度計は、1640年頃、フィレンツェで最初に開発された。発明の名誉は、トスカーナの大公爵、フェルディナンド2世に与えられている。ガリレオの著作『天文学対話』は彼に捧げられたものだ。
1642年にガリレオフィレンツェで亡くなった時、フェルディナンドは、彼を”我が時代の最大の光明”と呼び、彼の名誉をたたえ、貴族たちの墓が並ぶフィレンツェのサンタ・クローチェに大理石の廟を建てようとした。しかし、時の教皇、ウルバヌス8世はこの建物を「教皇庁の権威に対する攻撃だ」として拒絶したのだった。
ガリレオに対して宗教裁判が行なわれたにもかかわらず、フィレンツェでは科学は盛んに続けられた。それは、メディチ家の慈善に富んだ後見によるものであったし、また、ガリレオの弟子や学生がたくさん残っていたためでもあった。

彼らの中には、カヴァリエリ、ヴィヴィアーニ、また、気圧計の発明者であっとトリチェリ―らがいた。1657年には、9人のフィレンツェ人が、実験学会という学会を組織するために集まった。ガリレオの教えにしたがって知識の追及を進めるために、会員たちは自分たちで器具を作り、おのおのが実験を行ったのだった。
10年後に会員たちは、『実験学会における自然の実験結果の報告』と題した自分たちの仕事の報告書を出版した。報告書の第1章は「寒暖によって生じる空気の変化を見分ける装置に関する説明」と題したもので、温度計製作についての詳細を述べており、ガラス吹き職人がどのようにガラス球を作るのかも記載されていた。

フィレンツェ科学史博物館に展示されている初期のそうした温度計のいくつかは、特別に美しい。いろいろな形、例えば、細管、螺旋型、あるいは、幻想的な動物の形をしたものなどもある。それらの温度計はすべて、封入されている液体が熱されると膨張するという基本原理で働くようになっている。この膨張は、精巧な指示器の移動や、さまざまな密度の小球が液体の密度の変化に応じて移動する様子からわかるようになっている。