じじぃの「人の死にざま_1516_フラウンホーファー(物理学者)」

Joseph von Fraunhofer 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=2ZtXs130gmo
 暗線と輝線

フラウンホーファー サラリーマン、宇宙を語る。
プリズムに太陽の光を通すと、七色に分解する。この七色をよく見ると、所々に暗い線が現れる。
これがフラウンホーファー線だ。
http://www.astronomy.orino.net/site/kataru/solar_system/sun/fraunhofer_lines.html
ヨゼフ・フォン・フラウンホーファー ウィキペディアWikipedia)より
ヨゼフ・フォン・フラウンホーファー(Joseph von Fraunhofer, 1787年3月6日 - 1826年6月7日)は、ドイツの光学機器製作者、物理学者である。太陽光のスペクトルの中のフラウンホーファー線、光学分野のフラウンホーファー回折に名前を残している。ドイツの応用研究と技術移転の機関「フラウンホーファー研究機構」は彼の名前に由来する。
1813年にはウイリアム・ウォラストンとは別に太陽光のスペクトルの中に暗線(フラウンホーファー線)を発見した。1821年回折格子を製作した。1824年当時としては画期的な大きさの天体望遠鏡を製作した。

                              • -

『サイエンス異人伝 科学が残した「夢の痕跡」』  荒俣宏/著 ブルーバックス 2015年発行
スペクトルとスペクタクル (一部抜粋しています)
ともあれ、イタリアのガラス産業が独占していたガラスレンズ入りメガネは、フランスを経て、15世紀頃からフランクフルトやシュトラスブルグでも作られるようになった。レンズ工場がドイツに集中していくのである。
ヨーロッパ科学技術史の殿堂と呼ばれるドイツ博物館のあるミュンヘンにも、レンズ工場はかなり建てられたようだ。その最盛期には18世紀で、著名なガラス磨き職人が集まっていた。その一人に、フィリップ・アントン・ヴァイヒゼルベルガーという職人がいた。メガネレンズから鏡までを手がける名工だったらしい。1799年頃、この職人の許(もと)に、12歳の少年が弟子入りしてきた。正規の教育を受けていない、貧しく虚弱な子だったが、向上心にあふれていた。この少年こそ、のちにミュンヘンの大科学者と名をとどろかせるヨゼフ・フォン・フラウンホーファー(1787〜1826)の幼き日の姿である。
レンズ磨きの徒弟フラウンホーファーは、しかし、すぐ不運に見舞われた。住宅が崩壊し、同居人十数名とともに木材の下敷きになったからだ。かれ一人、半死半生で救出されたのを知った選定侯が、暮らしの立つようにと、18デュカート(現在の10万円にあたる)を贈ってくれた。
フラウンホーファーはこれでガラス切断機をつくり、レンズ磨きの技術をマスターしつつ、独学で光学理論や数学を修めていった。かれの才能を買った光学器械工場主ヨーゼフ・ニグルらは、この少年を、新設の光学器械製造会社に招いた。そして、ここで与えられた大仕事が、色収差のない望遠鏡をつくるためのレンズ開発だったのである。
      ・
このうちフラウンホーファーに与えられた仕事は、色ズレの起きないレンズをさらにレベルアップさせることであった。かれはこの難しい仕事に挑戦した。まさしく、望遠鏡の”検眼”方法を確立する仕事に艇身したのである。まず、1814年に分光器の原型を考案、色消しガラスを通した光を望遠鏡にみちびき、スペクトルの拡大像を見る実験を行った。これは、精密をむねとする職人にしか実現できない作業だった。
これに対し、イタリアの科学者はむしろ、精密でないことによって科学に新しい道をひらいたといってよい。その代表格はガリレオだろうか。かれが開始した実験という「新しい科学の驚異を演出する方法」は、われわれのイメージに反し、じつをいうと<厳密>ではなく<大雑把>をその発想の底においていた。なぜなら、ガリレオは加速度実験を行うときに、厳密な垂直落下実験のかわりに、板をななめに置いた「擬似垂直落下」を用いた。垂直では厳密に計測できないので、厳密さから解放された「斜めの落下」で代用させた。これは、厳密にいえば、インチキである。類似の結果しか得られない「大雑把な計測」である。しかし大雑把だったからこそ、イタリア科学は大成功したともいえる。現にガリレオは物体落下の法則、とくに加速度を発見したのである。
ところが、フラウンホーファーの活動した19世紀では、物質の性質を計測する方法は、もはや大雑把がゆるされないところへ差しかかっていた。これからの科学は厳密でなければいけない。擬似的な現象をつくる実験の価値は低くなり、実際に自然界での現象を計測する必要が叫ばれつつあった。たとえば磁気学のガウスは、その要求の下に登場したドイツの天才だった。そしてフラウンホーファーも、精密を実現できる職人だったのである。
      ・
フラウンホーファーの発見は、約40年後にその意味が解明される。物質が燃えて発光する際には、スペクトル中に特有の輝線が生じ、天体から来る光ではそれが暗転して暗線に見える、という事実だった。すなわち、暗線のパターンを計測すれば、その天体でどんな物質が燃焼発光しているかがわかるのである。天体を見るのに凸・凹両レンズを両眼に正しく装着すれば、天体がどんな物質からできあがっているか、正しく”見ること”ができるということだ。かくて、メガネの検眼方法を開発するのに大きな貢献をなしたドイツ工学とその精緻な職人たちは、望遠鏡をも”検眼”することによって、フラウンホーファー線を発見してしまった。
ミュンヘンでは、フラウンホーファーこそ英雄である。レンズ磨きと眼鏡(スペクタクル)と望遠鏡を結ぶ延長線上に成立したドイツの光学産業は、こうしてついに、ニュートンの光学を追い抜き、「生理光学」の輝かしい金字塔をうち樹(た)てた。