Leonardo da Vinci - Mini Biography 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=nrV91kOn-ao
人体解剖図
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた大量の解剖図デッサン画 カラパイア
ダビンチは絵を描く前に、被写体となりうる生物の内面・内部をより知ることによって、絵を美しく真実に近づけようとする目的から、自身でも動物解剖を行ったという。後に人体の解剖に立ち会い、自分自身でも人体解剖を行い、極めて詳細に書きこんだ解剖図を多数作成している。
これらの画像は、ダビンチが実際に自分の目で見た生体の内部構造を美しいデッサン画と共に描き現した手稿(ノート)の一部なんだそうだ。
http://karapaia.livedoor.biz/archives/51461558.html
Qさま!! 「現役 東大生・京大生が選んだ「天才だと思う偉人BEST30」」 2015年08月31日 日本テレビ
東京大学&京都大学の現役の学生に「天才だと思う偉人は誰?」というアンケートを実施してランキングを作成!
第1位 アインシュタイン(物理学者)
第2位 レオナルド・ダ・ヴィンチ(芸術家)
第3位 ニュートン(物理学者)
第4位 エジソン (発明家)
第5位 織田信長 (戦国大名)
第6位 ガリレオ・ガリレイ(天文学者)
第7位 坂本龍馬 (海援隊)
第8位 ノイマン(数学者)
第9位 モーツァルト(作曲家)
第10位 ナポレオン(フランス皇帝)
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『コミュ障 動物性を失った人類 正しく理解し能力を引き出す』 正高信男/著 ブルーバックス 2015年発行
木を見て森を見ない――パーツにこだわる世界認識 (一部抜粋しています)
レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年、当時のフィレンツェ共和国のヴィンチ村に出生している。名前はそのまま訳すと、「ヴィンチ村のレオナルド」となることから、近年では、簡略する際にはレオナルドのみ表記することが多くなっている。
周知のとおり世の中では彼をして、ルネサンスを代表する「万能の天才」と評している。だが、このレッテルは、ルネサンスが暗黒の中世からの脱皮であったとする一面的な理想化にもとづく曲解であり、彼はけっして万能ではなかったのだった。
それどころか彼は無口であったし、弁論術は大の苦手であったことが記録に残されているのだ。弁論術が、古代ギリシャの学問交流においてたいへんな重要な役割を果たしたことはあまりに有名である。ところが古典の復興を目指したはずのルネサンスにおいて、その立て役者であったレオナルドは弁論の術をわきまえなかったということになる。
さらに外国語の習得もついに行わなかった。レオナルドは生涯にわたって、生活する町を激しく移動している。ざっと記してもフィレンツェ→ミラノ→マントヴァ→ヴェネツィア→再びフィレンツェ→再びミラノ→ローマ、といった具合で、最後のフランスのアンポワーズで死を迎えることとなる。
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今日でも、同様の傾向はあるけれど、当時は今よりもはるかに人の往来がなかったのだから、よそ者は白い眼で見られる。話すことばが違うと、とけこめないのはいわずと知れたこと。だから、レオナルドはヘンなことばを話す奴として、疎外され続けた。それだからこそ、頻繁に住む街を替えたという事情もあったのだろう。
そしてついにイタリアを離れてフランスへ行くのだが、イタリア方言すら話せないのだから、状態は悪くなるばかり。そのままコミュニケーション不全に苦しみつつ、死を迎えたのだった。
そんなレオナルドの心を何よりも愉しませてくれたのが、解剖であった。初期にはウマを対象に行い、やがてそれは人体へと発展していった。
もっとも解剖そのものは、彼にとっては手段にすぎず、真意は森羅万象を観察したいという要求につき動かされてのことであった。幼年期にはすでに、虫やコウモリを描いていたと伝えらている。
26歳になったとき、フィレンツェで時の体制をゆるがす大事件が勃発する。当時フィレンツェを支配していたメディチ家に対抗するグループが蜂起し、メディチ家の当主ロレンツォの弟ジュリアーノを暗殺したのである。けれども陰謀は失敗。犯人は1年後に捕えられ、死刑に処せられることとなる。
絞首刑となった死体は、裁判所の壁に見せしめとして吊るされる。ところがレオナルドは、その死体を丹念にデッサンしに出かけたのだった! 周囲はあきれるほかなかったという。けれども彼にすれば、人体を画の題材として観察できる千載一隅のチャンスを、どうして見過ごさなくてはならないのかと、白眼視されることなど気にも掛けなかったことだろう。
やがて、40歳をすぎた頃からは、1年に平均して2体のペースで人体解剖とスケッチを行うようになっていき、それは15年にわたったのだった。いうまでもないことだが、この作業は1日や1週間かそこらで完了するものではない。
むろん、まだ防腐剤や冷却法も開発されていない頃のことである。腐臭がどれほどのものであったか。おそらく私たちの想像をはるかに超えたものだったろう。事実、彼の残したメモには、途中で内臓の一部が腐敗によって原形をとどめていないため、それ以上の部検をあきらめたという記載がしばしば登場する。
それはとりもなおさず、見ることのできるものはすべて、詳細に彼がスケッチしたということを物語っている。