じじぃの「歴史・思想_08_世界史大図鑑・フィリッポ・ブルネレスキ(ルネサンス最初の建築家)」

Filippo Brunelleschi Vol-1

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-fL04WjCZMk

Filippo Brunelleschi - Genius Builder of the Cathedral

Dome in Florence

『世界史大図鑑』

レグ・グラント/著、小島 毅、越前敏弥/訳 三省堂 2019年発行

古代人がこれほど高い建物を建設したことはなかった イタリア・ルネサンスのはじまり(1420年)

フィリッポ・ブルネレスキ より

フィリッポ・ブルネレスキ(1377年~1446年)はフィレンツェの生まれで、公証人の息子であり、父親の後を継ぐべく教育された。しかし、芸術的才能があったため、金細工師になるため修行し、時計作りについても学び、その後建築家になった。
25歳ごろに友人の彫刻家ドナテッロとローマを訪ねて、古代ローマ時代の建築の遺跡を研究し、ローマの作家ウィトルウィルスの理論書『建築十書』を読んだ。1419年に最初の大がかりな制作依頼を勝ちとった。それはフィレンツェの孤児院、スペダーレ・デッリ・イノチェンティの設計で、そのアーチ型の開廊とともに、ルネサンス初期における偉大な建築物のひとつに数えられている。フィレンツェの教会内の礼拝堂や街の要素を含む、数々のすばらしい作品がブルネレスキの名声を確固たるものにしたが、中でもドゥオーモの卓越したドームがいちばんの代表作である。
建築物だけでなく、ブルネレスキは線遠近法の理論においても重要な役割を果たし、また演劇においても、特定の効果を演出するための舞台装置を開発した。

イタリアのルネサンス より

「再生」という意味を持つルネサンスは、イタリアではじまり、15世紀半ばからヨーロッパ全土に広まっていった動きである。ルネサンスの根源は古代ギリシャ・ローマ文化の再発見にあり、この動きは科学や学問だけでなく、あらゆる芸術に影響を与えた。画家や彫刻家や建築家は中世美術の伝統から解き放たれ、古代ローマの遺跡を訪ねたり、古典の彫像やローマ様式の建築物の彫刻を調べたりして、古典様式の芸術作品を作りあげた。
この新しき動きは、レオン・バッティスタ・アルベルテイやブルネレスキなどの建築家、それにミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチをはじめとする名だたる芸術家に刺激を与えた。こうした人物の大半が多方面にわたって活躍した――ブルネレスキは彫刻家、牧師、建築家であり、ミケランジェロは絵画と彫刻と詩に秀で、ダ・ヴィンチに至っては、その功績は芸術と科学の領域にまで及んでいる。
ルネサンスの画家や彫刻家は、中性の画家や彫刻家よりもさらに写実的に現実世界を表現することを追求した。彼らは解剖学に忠実であることを重視し、科学理論に基づく遠近図法を開発した。古典美術と同じように、人体美と裸体表現をそれまで以上に追求するようになった。
また、古典への新たな学習術も高まった。これは、1453年にビザンツ帝国の首都コンスタンティノーブルが陥落したときに、イタリアへ移り住んだギリシャの学者たちの影響による。ビザンツ帝国からの亡命者たちは、古代ギリシャの文学や歴史や哲学の文献を持ちこんできた。
それらは西洋では失われたものだったので、彼らはギリシャ語を教えて、イタリア人が作品を読んで翻訳できるようにした。これがイタリアにおけるルネサンス人文主義の発生につながったのである。この人文主義は、人間性――文法、修辞法、歴史、哲学、詩について考察するもので、広義には人間の尊厳と可能性を尊重する運動だった。
ルネサンス期のイタリアの生活、商業、そして政治を支配していたのは、フィレンツェ、ミラノ、フェラーラヴェネツィアなどの強力な都市国家ローマ教皇であり、当時のローマ教皇カトリック教会の最高指導者というだけでばく、俗界においても強大な権力を持っていた。それぞれの都市国家は、交易や銀行家で巨万の富を築いた。マントヴァのゴンザーガ家、フェラーラエステ家、ミラノのスフォルツァ家、フィレンツェメディチ家などの支配者一族は、宮殿、教会、芸術作品に惜しみなく出資し、ルネサンス期の多くの偉大な芸術家の支援者となった。こうした裕福な一族は、子供のための家庭教師に学者を雇い入れて、古典研究の復興にも力を入れた。メディチ家のなかには教皇になる者もいた。