じじぃの「科学・芸術_404_ニュートン『プリンキピア』」

Newton's Principia Explained Part I 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=abwoL-g8SWc
 The trajectory of the ball
   

数学ミステリー白熱教室 第4回「数学と物理学 驚異のつながり」 2015年12月4日 NHK Eテレ
【講師】エドワード・フレンケル(カリフォルニア大学バークレー校教授)
抽象的な数学を突き詰めれば、やがてこの宇宙の法則を次々と解明することに繋がるとも考えられるのだ。
それにしてもなぜ、抽象世界を描くはずの純粋数学が、現実を記述する物理学と深いつながりを持つのか。
今回、特に話をしたいのは、量子物理学とのつながりだ。
数学とは全く異なる、物理学の世界ともつながりがありうる。
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最後に伝えたい言葉がある。
アイザック・ニュートンの言葉だ。
 私は浜辺で遊ぶ子どものようだった。
 浜辺ですべすべした小石や美しい貝殻を拾って喜んでいた。
 しかし、私の目の前には真理の大海原が発見されることなく広がっていたのだ。
https://www.nhk.or.jp/school-blog/300/230993.html
『物理2600年の歴史を変えた51のスケッチ』 ドン・S・レモンズ/著、倉田幸信/訳 プレジデント社 2017年発行
ニュートン力学による軌道 [1687年] より
ガリレオが望遠鏡を使って月に山や谷があると発見したことで、地上の世界も天空界も同じ仕組みでできていることが暗に示されました。これをいっそう動かぬものにしたのがニュートン(1643年〜1727年)です。彼はガリレオの発見した放物運動を宇宙レベルにまで一般化することで地上も天空界も同じ仕組みで動いていることを改めて確認しました。
野球のボールを真横に投げて、それが時空間の中でどのような軌跡を描いていくかを想像してみましょう。ボールが地面を進む距離は経過時間の1乗(t)に正比例し、ボールが地上に向けて落ちていく距離は経過時間の2乗(t2)に正比例します。すなわち軌跡は放物線を描きます。
しかし、地球の表面は真っ平らではありません。また、地球の重力に引っ張られる強さは地球の中心からの距離に左右されます。物体は本当のところ落ちるのではなく、地球の中心に向かって進むのです。その結果として生まれる向心(求心)加速度は、地球の中心からから遠いほど小さくなります。こうしたことは、野球ボールの軌跡を考えるときはどうでもよかったのですが、地球を1周するほど大きな軌跡を考えるときには重要になります。それを教えてくれるのが図(画像参照)で、このニュートンの手書きの絵図は1687年の彼の代表作『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』か引用しています。
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ニュートンがいたのは17世紀ですから、先ほどの野球ボールの役割は大砲の砲弾が果たします。地球上で一番高い山の頂上に大砲を据え付け、砲口を水平にし、大気を消し去れば、ニュートンの描いた絵図の状態になります。弾速が比較的遅いとき、砲弾の描く軌道は放物線のように見えます。打ち出す速度が上がるにつれて砲弾の飛距離は伸び、最後には完全な円軌道を描いて1周します。図の一番そとがわにある2つの軌道は、地球の中心を焦点の1つとする楕円軌道です。この図が言わんとするところは、放物線のように見える軌道も実際は楕円軌道の一部分だということです。野球ボールも砲弾も本来なら楕円軌道を描くはずですが、その多くの部分は地球全体に邪魔されて実現できないだけなのです。
ニュートンはこの図でぼんやりと示したことを『プリンキピア』のなかで数学を使ってはっきり証明しています。2乗の逆数となる前述の重力の法則とニュートンの運動3法則を使った結果、地上に近い高さから発射された物体はほぼ放物線状の軌道を描き、人工衛星や月は円軌道や楕円軌道を描き、惑星や彗星は双曲線の軌道を描きました。
『プリンキピア』は重力の法則が万物に普遍的に働く(万有引力)としています。それによれば、全宇宙のすべての質点[物体の重心にその物体の全質量が凝縮したと仮想的に考えた点]はほかのすべての質点を引っ張っており、その力は2つの質量の積に比例し、2つの質点の距離の2乗に反比例します。ニュートンはこの計算式を使い、海が地球と月と太陽から受ける3重の引力を計算し、満潮の高さと時間を予測するアルゴリズムをつくり上げました。
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『プリンキピア』はその初版(1687年)からニュートンの名声を高めました。初版から40年後二亡くなるまでの間、彼は『プリンキピア』の修正と追加を続け、ついには光学と数学に関する著作まで出版しました。彼は1696年にケンブリッジ大学教授を辞め、王立造幣局監事の食を受けると1700年には造幣局長官になります。ケンブリッジ選出の国会議員も務め(1701年)、王立協会理事長(1703年)にも選ばれました。1705年にはアン女王からナイトの称号を授けられました。
アイザック・ニュートン卿は1727年に亡くなりますが、その学術面の業績は現代に至るまで生き続けています。