じじぃの「歴史・思想_195_世界史の新常識・ペストの大流行と微分積分」

Great Plague of London 1665, Issac Newton, and Corona-Virus (Success Story)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Xmq9cOS07gc

Who Invented Calculus: Newton or Leibniz ?

大下容子ワイド!スクランブル

2020年3月23日 テレビ朝日
【司会】佐々木亮太、大下容子 【コメンテーター】川村晃司テレビ朝日コメンテーター)、マライ・メントライン(ドイツ放送プロデューサー)、古田大輔(メディアコラボ 代表) 【解説】池上彰(ジャーナリスト)、増田ユリヤ(ジャーナリスト)

池上彰増田ユリヤ・徹底生解説 3つの言葉・共通点は

感染症を歴史から見てみる。
奈良の大仏、デマ、万有引力
感染症の流行をきっかけに生まれたもの。
実は人類というのは感染症との長い闘いの歴史があった。
●歴史書 第3章:疫病に立ち向かうということで医者も防護
ドイツの医師コッホは、感染力のある病原体としての細菌である炭疽菌を光学顕微鏡を用いて初めて発見した。
さらには天然痘と闘っていくために冷戦下あった米国とソ連が協力して天然痘に打ち勝った。
人類は感染症と闘い続け、かなり負けてきたこともあるが、ここに来て科学の力によってこれに打ち勝とうとしている。
疫病の思わぬ副産物。

17世紀にヨーロッパでペストが流行し学校が休校になった。

当時のイングランドケンブリッジも大学が休校になり、アイザック・ニュートンが大学が故郷へ帰って故郷で思索を深めていたときにリンゴの木からリンゴの実が落ち、万有引力の法則を発見したと伝えられている。

ニュートンは現在にわたる微分積分も考え出した。
新型コロナウイルスで休校になって家に閉じ込められている子どもたちも大勢いると思うが、これを機会に新たに勉強し新しいことを考える。小説も生まれるかもしれない。
https://www.tv-asahi.co.jp/scramble/

『世界史の新常識』

文藝春秋/編 文春新書 2019年発行

中世・近世

戦争と疫病がニュートンライプニッツを生んだ 【執筆者】柳谷晃 より

高校の数学で習う微分積分は、今の世の中に欠かせない。そればかりか、その威力を知れば、近代ヨーロッパの世界制覇も、微分積分なしには不可能だったと思うことだろう。
この本は数学でななく、歴史についての本だから、ここで微分積分とは何かを説明するのは控えよう。何に力を発揮するかといえば、たとえば、微分積分は時間とともに刻々と変化する運動を分析するのに非常に役に立つ。人工衛星微分積分がなければ、打ち上げられない。
さて、この微分積分を作ったのは、誰かといえば、17世紀に生まれたニュートンライプニッツと言われている。しかし、一人や二人の天才だけでは、微分積分のような世の中を変えてしまう理論を築くことはできない。すぐに思いつくだけでも次のような人々が微分積分の完成に寄与している。
  アルキメデス(紀元前287~紀元前212)
  ケプラー(1571~1630)
  メルセンヌ(1588~1648)
  デカルト(1596~1650)
   ・
  ニュートン(1643~1727)
  ライプニッツ(1646~1716)
ご覧いただくと、人材が17世紀に集中していることがわかるだろう。なぜ、この時期に天才が続々と出現したのだろうか。
その問いに答えるためには、まず、時間を遡らなければならない。
――1095年11月。ウルバヌス2世はクレルモン公会議で中世最高と言われる名演説をする。この演説は、キリスト教の聖地エルサレムをセルジュク=トルコに奪われ、領土を脅かされたビザンティン皇帝の救援の求めに応じてなされた。聖地奪還のための遠征を唱えたこの演説によって、十字軍の遠征が始まる。
その当時、ローマ教会は知識の中心だった。イスラムの実力を知らないわけではなく、様々なルートで情報を集めていた。たとえば、イスラムの大学にアラビア人に変装した僧を潜りこませ、その講義録を持ちかえらせていた。しかし、その情報はローマ教皇庁から外に出されることはなかった。キリスト教信者たちがそれを知れば、ローマ教会の権威が揺らいでしまうからだ。

飢饉、戦争、疫病

微分積分が完成に向かう17世紀のヨーロッパは、混乱と荒廃の極みにあり、かつてない不安に覆われていた。それをもたらしたのは、飢饉と戦争と疫病だった。
この時代のヨーロッパは、小氷期と言われる14世紀半ばから19世紀半ばまで続く寒冷期にあり、平均気温が低下していた。1645年から1715年はマウンダー極小期と言われ、太陽活動が極めて低調な時期だった。これが17世紀の寒冷期の遠因とも考えられている。もともと、ヨーロッパの土地は肥沃ではない。当時の農業技術を考えれば、平均気温が少し下がっただけで、収穫量が減少したことは想像に難くない。凶作は当然、飢饉に直結した。
また、16世紀から始まったローマ・カトリックプロテスタントによる宗教戦争は、17世紀に入っても収束せず、フランスではユグノー戦争(1562~1598)、ドイツでは30年戦争(1618~1648)という2つの大きな戦争が起き、ヨーロッパに深い傷跡を残した。
そして、疫病も多くの命を奪った。ヨーロッパの人口の3分の1から3分の2が犠牲となった14世紀のペスト大流行が有名だが、17世紀も各地でペストが頻発した。
地域によって、減少率は異なるが、飢饉、戦争、疫病によってヨーロッパ各地で深刻な人口減少が引き起こされた。30年戦争を経て、ドイツの人口は約1600万人から1000万人と、約4割も減ったと言われている。全体で見ても、17世紀のヨーロッパの人口は停滞していた。
    ・
16、17世紀の数学者、物理学者は、敬虔なキリスト教徒である。その代表例はケプラーである。彼はティコ・ブラーエによる火星の精密な観測結果を精査した。しかし、ケプラーは自分の得た結果にどうしても納得がいかなかった。地球や火星の公転軌道は真円ではなく、楕円だったからだ。神よ、なぜ真円を使わなかったのですか、とケプラーは神に問いたずねたかったにちがいない。しかし、ケプラーは目の前の現実を説明できない、既成のキリスト教の論理に従わなかった。惑星の楕円軌道を受け容れ、なぜそうなるかを考えた。そして、惑星の公転速度や公転周期についての法則を発見した。
地動説を唱えたことで有名な有名なコペルニクスは天才修道士だったが、惑星の公転軌道が楕円であることは発見できず、真円で考えていた。コペルニクスケプラーはどの精度で、惑星の軌道を観測できなかったからである。このことは目の前の現実を精緻に観察することが、科学にとって、いかに重要かを物語っている。
ローマ教会は、地動説を唱えたガリレオを異端審問にかけたことから、科学的精神の敵のように思われているが、実は科学の研究をかなり進めていた。神が創った自然を恣意的に解釈し、理解するのではなく、現実にしっかり向き合い、誰もが納得するかたちで、現実を説明することが求められていたからだ。

ローマ教会が育てた天才

真円だと思いこんでいた公転軌道が楕円だった。
正しいはずの暦が間違っていた。
理論と現実を対照したとき、理論の力が誤っていた。
このような問題が相次いで浮上したとき、もはやローマ教会の内部だけでは、科学的な問題を解決できないのではないか、ローマ教会の外にいる人材も集めて教育を施し、優れた科学者を育てなければ」ならないのではないか、と考える人々が現れても不思議ではない。おそらく、そのような危機感から、1534年に創立されたイエズス会はフランス、イタリアなどに学校に創立した。そこでは貧しい家庭の子どもでも、素質があるが、勉強をすることができた。そこで育ったのが、メルセンヌデカルト、トリチュリである。
メルセンヌは当時の天才たちの手紙を興味を持ちそうな持ちそうな人々に回覧して、自分のサロンを形成していった。当時の手紙は今で言えば、科学雑誌のようなもので、研究の成果を発表する媒体だった。メルセンヌのサロンは、フランス科学アカデミーの母体となった。
ローマ教会も科学の教育に力を注いだ。それはローマ教会がイタリア各地に持っていた大学で行われた。
ローマ教会の内部から生まれた。優れた研究者・教育者にカステリ神父(1578~1643)がいる。彼はガリレオの弟子で、ローマ教会の運営する大学に派遣され、講義をしていた。実はガリレオ教皇パウルス5世はかなり親密だった。
カステリ神父はカヴァリエリとトリチュリという優れた弟子を育てた。カヴァリエリは現代の高校数学の教科書にも出て来る積分の面積公式「カヴァリエリの定理」に名を残している。トリチュリはカステリ神父の推薦でガリレオの助手となった。トリチュリはガリレオの『新科学対話』の第3章を手伝い、そこで扱われている落体の放物線運動についての記述を整理した。その過程でトリチュリは微分積分が逆の計算であることに気づく。この発見の重要性はいくら協調してもしすぎることはない。この発見によって、それまで非常に難しかった積分の計算が、天才でなくてもできるものになっていったからだ。トリチュリからバトンを渡されたニュートンライプニッツがその方法を確立させた。微分積分の発展に大きく貢献した2人は、ローマ教会が育てていたことになる。