Video analysis prompts new theory on Fukushima explosion
Fukushima nuclear accident
Lessons From Fukushima: An Assessment of the Investigations of the Nuclear Disaster
May 12, 2013 The Asia-Pacific Journal: Japan Focus
https://apjjf.org/2013/11/19/Kerstin-Lukner/3937/article.html
『歴史を変えた自然災害』
ルーシー・ジョーンズ/著、大槻敦子/訳 原書房 2021年発行
第11章 不運の列島――日本、東北地方、2011年 より
3月11日午後2時46分、揺れが始まった。ベッドには着物があった。大きな揺れがきて佐原真紀は床に放り出された。手足を踏ん張りながら、揺れが収まるのを待った。さらに待ち続けた。立っていられないほどの強い揺れは1分以上続いた。
地震はマグニチュード9。日本のすぐ沖で発生していた。断層の長さは約400キロ、その中心は福島の真東である。地震の規模は記録上4番目に大きく、すべり量は過去最大だった。それまで世界最大のすべり量は1960年のチリ地震だった。そのときの断層は長さがおよそ1200キロ、最大のすべり量はおよそ35メートルである。つまり、断層の両側にあるふたつの物体が一瞬で30メートル以上離れた場所に移動したということだ(今日のサンアンドレアス断層に蓄積されているわずか8メートル弱のひずみと比べてみるとよい)。今回の日本の地震は、断層の長さは1960年チリ地震の3分の1しかないが、最大すべり量は約70メートルと、それまでの最大値の2倍に上った。それはまさに、ほとんどの地震学者が起こりえないと考えていた地震だった――実際に発生するまでは。
ほかの多くの国なら建物が完全に崩壊していたであろうこの地震で、佐原の家で食器が割れただけだったのはひとえに日本の建築基準法(と、同じくらい重要なことだが、それを厳格に守らせていること)のたまものである。家は大丈夫だったが、停電が起き、携帯電話は回線がパンクしてつながらなくなった。佐原はまず幼稚園に駆けつけて、娘を連れ帰った。その後すぐ夫がようすを見にきたが、家族の無事を確かめると、怯えた客を手助けするためにホテルに戻っていった。佐原と娘は落ち着いて不断の生活に戻るのを待った。けれども母として、主婦としての人生がもとどおりになることはなかった。
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スマトラ島沖地震の発生はこのときから6年前だった。呆然と見つめる人々の目の前で繰り広げられた光景を思えばわかるが、沖合の地震の被害は揺れそのものではなく結果として生じる海底の移動によってもたらされる。東北地方太平洋沖地震では約400キロの長さの岩のかたまりが最大で約70メートルほど動いて大量の水を動かしたため、必然的に津波が発生した。
波は本州の最北東部、東北地方と呼ばれる地域を襲った。東北地方の海岸線は起伏が激しく、そのあいまに小さな町や村がはさまっている。ほとんどは日本料理で知られている魚介類を収穫する漁村である。都会から離れて孤立したこの一帯は、日本のなかでも特に昔ながらの習慣が続いている場所だ。長男は家業を継いで両親とともに代々の家に残る。嫁は夫の親族と暮らし、若い母親は家庭で子育てをする。女性の活躍の場はかぎられていた。
津波は地震と同じように日本の暮らしの一部で、ほとんどの町で防護対策が施されていた。2011年3月当時、多くの場所で、集落のある港付近の平坦地を守るために6メートルほどの防波堤が築かれていた。津波が海岸に到達するまでに15~30分かかるため、強い揺れが起きたら高い場所へ避難するよう訓練が行われていた。危険は認識され、津波への備えも十分だと思われた。
たしかに、地震学者が想定していたような津波への備えはできていた。しかし、この地震は沖合の断層で発生しうるすべての予想を上回る規模だった。実際の津波は予想の数倍高く、多くの場所で13メートルを超えた。約30メートルに達したところもあった。とにかく圧倒的な高さだった。断層のすべり量が最大だった震源域の北半分に沿って、波の高さは全域で9メートルを超えていた。その地域の潮位計はとてつもなく大きな波で破壊された。どれほど大きかったかはわからない。ただ、計器が壊れた高さより大きかったとしか言いようがない。
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東北地方沿岸部ではいくつもの町で同じような悲劇が繰り返された。宮城県南三陸町では、若い女性が防災庁舎の2階にあった持ち場に残り、津波から避難するよう防災無線で呼びかけていた。津波は建物を引き裂き、女性をこの世から連れ去った。宮城県石巻市の小学校では、津波警報時の対応を訓練されていなかった教員が児童を校庭に集めた。海から4キロ以上離れていたため、安全だと思われたのだ。それだけ離れていたにもかかわらず津波は小学校を襲い、児童108人のうち74人が死亡した。
最終的に、マグニチュード9の地震が原因となった死者はおよそ150人、津波による死者は1万8000人を超えた。ひとつひとつの死が悲劇であり、被害の範囲がこれだけでも、おそろしい大災害である。それでも、この前例を見ない規模の地震と津波に襲われてさえ、大半の国なら悪くないと考えられるていどの被害しか出なかった日本はうまく切り抜けたと言えた。地震で倒壊した建物はほとんどなく、列車も脱線しなかった。予想をはるかに超えた津波は多数の死者を出したが、実際の被害は1億人を超える日本の人口の比較的小さな割合にとどまり、1923年の関東大震災の死者10万5000人よりよりはるかに少ない。この事象を国家的大惨事に変えたのは地震そのものではなく、また地震と津波の組み合わせでさえなく、そのふたつの自然現象とさらにもうひとつの重大な人為的要素が結合したためだった。それらが重なったことで、日本は第二次世界大戦以来遭遇したことのない規模の危機に見舞われたのである。
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津波の第1波が福島を襲ったのは、地震からおよそ45分後の午後3時27分だった。その8分後、さらに大きな第2波が到達した。10年前に発動機が密閉された海水ポンプは、それほど大きな波に襲われても持ちこたえた。だが弱点は非常用電源にあった。設置された場所が低すぎ、13メートルを超える波で完全に水に浸かってしまったのである。その結果、発電所にある6基の原子炉のうちの3基で冷却システムが働かなくなった。冷却されなければ原子炉は加熱する。圧力が高くなり、核燃料が溶けた。原子炉の爆発はもう時間の問題だった。
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2017年の春、わたしは佐原真紀とともに1日を過ごして、放射線データ、理解、訓練を福島にもたらした彼女の取り組みについて学んだ。彼女はそのときまでにふくしま30プロジェクトの運営を引き継いでいた。それは6年前の主婦としての生活から遠く長い道のりだった。注目を維持するためにはプロジェクトを維持していかなければならないと、彼女は決意していた。復興の最大の難点のひとつは人間の注意力が長続きしないことだと知っていたからだ。世界はどうしても次の災害、次の危機、次のニーズへと移ってしまう。けれども東北地方の人々にとって復興は進行形だ。数年が経過しても、多くはまだ仮設住宅で暮らしていた。福島第一原発にもっとも近い周辺地域はなおも帰宅困難区域である。岩手県大槌町は依然として、被災した役場庁舎を記憶にとどめるために保存するか、地域社会が未来に向かって進めるように解体するかを決めようとしていた。復興は苦しいほど長いプロセスになりうる。
ともに過ごした1日の終わりに、もしひとつだけ世界に伝えるとしたら、それは何かとわたしは尋ねた。佐原は言った。20年経って振り返ってみて、自分と組織の仲間は子どもたちの安全を守るために求められる以上のことをやったと安堵したい。振り返ったときに不十分だったと思い知らされるのは考えるだけでもこわすぎるから。