じじぃの「歴史・思想_600_プーチンの正体・KGB時代とその側近集団」

Vladimir Putin - KGB Agent

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=e2_EFJLWA6o

Litvinenko murder: Moscow shrugs off London’s accusations against Putin


Alexander Litvinenko Was Killed ‘for Calling Putin a Pedophile’

Apr. 13, 2017
LONDON - A prominent Russian dissident was assassinated in London with a deadly dose of radioactive poison because he had claimed that Vladimir Putin was a pedophile, according to an independent British inquiry.
The hit was “probably” carried out on the personal orders of the Russian president.
https://www.thedailybeast.com/alexander-litvinenko-was-killed-for-calling-putin-a-pedophile

プーチンの正体』

黒井文太郎/著 宝島社新書 2022年発行

まえがき より

2022年2月24日、プーチンがロシア軍にウクライナ侵攻を命じ、侵略戦争が始まった。しかし、このプーチンの「狂気」は、なにも急に生まれたわけではない。彼自身が書いたり語ったりしているが、もともと彼にはウクライナ征服の願望があった。その機会を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていたのだ。
ただし、現代の世界では、あからさまな侵略は容易なことではない。国際社会の反発は当然予想されるし、戦争を勝ち抜く力も必要だ。プーチンはその機会をじっと待っていたのである。

第3章 黒い独裁者の正体 より

KGBから改革派市長の補佐へ

では、プーチンはどのように権力を掴み、どのように独裁システムをつくったのか。
ウラジーミル・プーチンは1952年生まれで、2022年4月現在は69歳。出身はレニングラード(現・サンクトペテルブルク)である。少年時代からKGBに憧れていたとの逸話もあるが、後付けの可能性もあり事実か否かはわからない。
いずれにせよ成績は優秀で、名門レニングラード大学法学部を卒業し、KGBに幹部コースで入った。KGBでは防諜部門の第2総局を経て対外諜報活動を担当する第1総局に配属され、レニングラード支局を経て、1985年から東ドイツドレスデン支局に勤務した。
ちなみに筆者は以前、ドイツに行った際にプーチンが当時勤務していた旧KGBドレスデン支局の建物を探し当てて訪ねたことがある。
ドレスデンはそれほど大きな町ではないが、旧KGB支局は町の中心から乗り合いバスで20~30分ほど離れた住宅地にあった。幹線道路から近いので閑静な環境とはいえないものの緑の多いエリアで、戸建ての住宅が並んでいた。そんな一画の普通の戸建て住宅が旧KGB支局の建物だった。表札を見ると、心理カウンセリング民間療法の一種である「家族療法」を謳う会社の事務所だった。その日はたしか日曜日で誰もいかなかったが、もちろん当時はすでにロシアとは無関係だ。
ソ連のスパイの拠点としては不便な場所に思えたが、その理由はわからない。ただ、周囲に人通りはほとんどないので、誰かが近づけばわかる場所ではあった。
プーチンはそこで1990年まで勤務した。東ドイツ勤務は5年間で、年齢でいえば32歳から37歳。スパイとしては若手の終わりから中堅にかけてといった時期だろう。その帰国直前、ちょうど37歳になる頃の時期に、ライプチヒでのデモからベルリンの壁の崩壊に繋がる時代の激変を体験している。この体験はプーチンにとって大きなものだったと推測できるが、当時の彼がどう思っていたかは本人にしかわからない(プーチンは独裁者に上り詰めた後、過去の自分を何度か語っているが、それらの”物語”の真実度は不明である)。
いずれにせよ故郷レニングラードに帰った後、プーチンKGB予備役となり(最終階級は中佐)、母校・レニングラード大学で働き、大学時代の恩師であったアナトリー・サプチャーク教授と関係を深める。サプチャークは当時、政界に転じてレニングラード市党議長になっており、プーチンは彼の補佐となって正式にKGBから離れた。

側近集団「シロビキ」

その後、1996年に後ろ盾であるサプチャークの市長退陣と同時にプーチンも辞職するが、すでにロシア官界である程度の評価を得ており、エリツィン政権に誘われてモスクワに行き、ロシア大統領府の要職に就任。第1997年にはロシア大統領府長官、1998年には大統領府第1副長官、さらにロシア連邦保安庁FSB)長官に就任した。つまり一介の中堅の現場スパイから冷戦終結KGBを退職した後、わずか8年で古巣にトップとして返り咲いたわけである。
FSB長官となったプーチンは、昔からの仲間を要職に就け、FSBを短期間で掌握した。その頃に深い関係を築いたのがFSB生え抜き幹部のニコライ・パトルシェフだ。ほぼ同世代で同じレニングラード出身であり、のちにFSB長官から政権の対外戦略の司令塔である安全保障会議書記となり、現在もプーチンを支え続けている。
プーチンは権力を強化する過程で、「シロビキ」と呼ばれるKGB・軍の出身者のグループと協力するが、パトルシェフは、やはりプーチンの知己でKGB出身のビクトル・イワノフ(元大統領補佐官)やイーゴリ・セチン(元大統領府補佐官。現・国営石油大手「ロスネフチ」会長)らとともにシロビキの中心的人物だ。

プーチンは早いうちから剛腕な政策を進めているが、それが可能だったのはこうしたシロビキの側近たちがいればこそだ。シロビキの主力はプーチンと同じく冷戦終結時に40歳前後だった世代で、レニングラード出身もしくは同市を活動基盤とするKGB出身者である。プーチンは独裁者だが、厳密には「プーチンと仲間たち」が政権を強権化してきたといえる。