じじぃの「科学・地球_436_アルツハイマー征服・バピネツマブ崩れ」

Rae Lyn Conrad, high school graduation


【著者インタビュー】編集長も三度泣いた! 下山進アルツハイマー征服』

2021年03月25日 Hanadaプラス
――もう一つ泣いたのは、ワクチンの開発に参加していた科学者ラエ・リン・バークがアルツハイマー病になってしまう話。まさか、ワクチン開発をしていた科学者自身が発症してしまうとは。夫のレジス・ケリーが健気に看病をずっとしていて、偉いんですよね。
下山 昨年4月にアメリカに2週間行って詰めの取材をする予定だったんですけど、そのうちアメリカでも新型コロナ感染が拡大して、結局Zoomでの取材になって、その時にレジスにも話を聞きました。
ラエ・リンは夜中にしょっちゅう起きるので、その対応をするから寝られない。施設に入れることにしたけど、いい施設は年間12万ドルもかかる。家を売って費用の足しにして、仕事も続ける。自分は施設の近くに住む息子の家の地下室に住んでいて、Zoomで室内を少し見せてもらいましたが、本当に少ししか光が差さない地下室なんですよ。
――ラエ・リンは「Can I help you?」(何か困っていることはない?)が口癖だった。病気が進んでもう会話もままならなくなったのに、施設内で人に会うと必ず、「Can I help you?」」と尋ねる。この話も泣けました。
下山 たとえ病気になってもその人の本質は変わらないんだ、ということがわかるエピソードですよね。
https://hanada-plus.jp/articles/651?page=2

アルツハイマー征服』

下山進/著 角川書店 2021年発行

第14章 バピネツマブ より

  1ミリグラムまで投与量をさげられたバピネツマブ(ベータアミロイドを標的とするアルツハイマー病治療薬)のフェーズ3。リサ・マッコンローグは投与量がこんなに低くては効かないのではと不安になる。親友のラエ・リンは治験に入る。

ラエ・リン(AN1792の開発に参加した。彼女は簡単な数学問題をドライブ中に頭の中で解くことが趣味だった。通勤ドライブのさなか、それができなくなっていることに気づく)は、2008年8月までSRIインターナショナルに勤めたが、職場でアルツハイマー病のことを明らかにしたのは、退職のパーティーの時のことだった。
ラエ・リンにとっては、科学と離れることは何よりも辛いことだった。夫はUCSF(カリフォルニア大学サンフランシスコ校)で研究を続けている。自分だけが家にいなくてはならない。
ラエ・リンは、こうしたなかで新しい生きがいをみつけようともがく。
週に一度、アルツハイマー病の患者の集いに出てみることにした。
そこで行われているのは、写真をとることだったり、陶芸をすることだったりした。動物愛護協会での簡単なボランティアというのもあった。
ラエ・リンはそうした画一的なアルツハイマー病患者の扱いに腹がたった。
ある日のミーティングで堪えきれにこう発言する。
「これは間違っている。私たちは闘士にならなければならない。戦わなくてはならない。自分は研究者としてHIVのワクチンについて研究していた時に、患者の団体とも接した。彼らは戦って、自分たちの病気についてもっと積極的な治療をするよう要求をして、その地位を勝ち取った。我々は自分たちの病気について、もっと人々の理解を得るよう努力しなくてはならない」
ラエ・リンは、様々なところに出かけて積極的に講演をし、自らの病気のことを誇るようになる。
自分が開発を手伝ったアルツハイマー病の根本治療薬の第2世代の治験に入っていることも、積極的に明らかにした。
そうした姿は、後につくられた映画『アリスのままで』のモデルともなった。

こんなに低くて効くのだろうか?

UCSF時代からの親友であるリサ・マッコンローグは、ラエ・リンが科学のことになると、ほとんど病気を意識できないクリアな思考を展開することに驚愕した。
が、奇妙なことに日常のちょっとしたことができないのだ。
レストランでリサが、自分のキャリアについて相談をすると、的確このうえないアドバイスをする。が、勘定を支払うというだんになって、そもそもその支払い方がわからない、といった具合だ。
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治験は、2012年6月まで続く長いものになった。
コードブレイクの行なわれる2012年7月。
エラン社はあとのない状況になっていた。
株価はあいかわらず低く、株主の不満は高まっていた。メルル・リンチからきたCEOのケリー・マーチンはプライベートジェットで西海岸と東海岸を行き来していたが、これが無駄づかいだとして非難された。
しかし、まだバピネツマブがあった。
エラン社にとって、デールたちにとって、ファイザージョンソン・エンド・ジョンソンの治験の結果は、自分たちの将来を決するものだった。
新聞は、「エラン社は宝くじのチケットをまだ持っている」とはやした。

もう自分はアルツハイマー病の研究は続けられないかもしれない

ベイエリアにあるデール・シェンクの家は平屋だ。
2人目の妻リズ・シェンクと1998年6月に結婚、息子が2人いた。1階のリビングには、グランドピアノとチェスボードがある。
シェンクの日常は決まっていた。朝5時半に起きたあと、コーヒーを1杯飲む。そのあとリビングにあるチェスボードで1人チェスをする。チェスが一段落したところでラボに向かう。夕方帰ってくると2人の息子がまとわりついてくる。その日何があったかを、2人がいきせききって話すのにニコニコしながら耳を傾ける。夕食の時間までに、ピアノを弾くこともある。
2012年7月23日のその日も夫は、普段どおりの時間に帰ってきた。子ども2人がまとわりつく。が、デールのその顔がいつもと違っていた。激しく落ち込んでいるように見えた。
リズは、子どもたちを制して、夫に「ワインをもってこようか」と言った。
リビングに夫をつれていき、ワイングラスをだしてワインを注ぎ、「どうしたの」と話を聞いた。
この日、ファイザーが、治験の結果を発表していた。評価はまだ発表されていなかったが、治験にかせられていた目標をどれも達しておらず、効果はない、という結果だった。
代表的な治験サイトのひとつだったブリガム・アンド・ウィメンズ病院のレイサ・スパーリングはニューヨーク・タイムズの主題にこたえてその結果をこのように表現していた。
「治験にあらかじめ設定された目標は達成できず、認知機能に対する効果も、身体的な効果もどのような治療効果もなかった」
どのような治療効果もなかった!
夫はどんなときでもほがらかで楽天的だった。
知り合ったのは、自分が日本から帰ってきた97年のことだった。3月にマインドフルネスのサークルで出会ったが、このとき、自分は夫が、どこかの金持ちの家系でその遺産で暮らしているボンボンかと思っていた。ポルシェをのりまわし、いつでも自分をデートに誘ってくれる。それが、あるパーティーで初めてアルツハイマー病の研究者だということを知った。
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いつだって夫は、確固とした信念と自信をもって仕事をしていた。ところが、その日は違ったのだった。夫がこのような辛い表情をしているのを見たことはない。
デール・シェンクは、自分が職業人生のすべてをかけてとりくんできた薬が駄目になったことを、その夜、妻に語ったのだった。
「自分はこの薬の開発に12年かけてきた。ワクチン療法の開発から数えれば20年ちかく、この病気の根本治療開発にとりくんできた」
バピネツマブは、エラン社の最後の希望だ。この薬が駄目だということになれば、もうエラン社での仕事は続けられないだろう。それどころか、と暗い顔でこういったのだった。
「もうアルツハイマー病の治療薬にかかわることはできないかもしれない。研究者たちの将来も心配だ」

全開発部門を閉鎖

バピネツマブの開発が中止になって1週間後のことだ。リサ・マッコンローグが、エレベーターに駆け込むと、デール・シェンクがいた。マッコンローグはそのときオックスフォード大学とあるプロジェクトをしていたが、そのけんでの相談ということで、デールは話しかけた。サイエンスのことになるとデールの顔は輝く。エレベーターをおりてしばらく話をした。バピネツマブの開発中止のニュースにデールはまいっているかと思ったが、すっきりとしているようで安心をした。
しかし、後から考えると、デールはすでに翌日の報せを知っていたのだ。
明るく対応してくれたそのときのデータの心境を思うと、リサは今でもたまらなくなる。
翌日、CEOのケリー・マーチンがニューヨークからプライベートジェットでベイエリアにある開発部門にやってきた。
全研究員が、開発部門のあるビルの1階の大きなホールに集められた。らせん状の階段があり、アルツハイマー病の患者の描いたモダンアートが飾られている豪奢なスペースだった。
そこでケリー・マーチンは全研究員にこう告げたのだった。
「たいへん残念なことだが、サンフランシスコにある開発拠点は全て閉じることになった」
バピネツマブの失敗でこれ以上、ここをかかえていけないこと、研究施設もビルもすべて売却するということが話された。
200人以上いる研究者でそのことを予想した研究員はいなかった。研究施設を閉じるということは、自分たちも人員整理の対象になるということを意味していた。
リサも、ドラも、ピーターもそのCEOの宣告を唖然と聞いていた。
私たちは明日からどうすればいいの?
このようにして、アセナ・ニューロサイエンスの創立の1987年以来、ずっと続いてきた「科学者の楽園」は終わりをつげたのである。