じじぃの「映画はトラウマを描くための特別な表現媒体!映画『プレシャス』」

映画『プレシャス』予告編

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=XLNv2vV6gik

『プレシャス』


Mike Giordano, Psychotherapist

NOVEMBER 23RD, 2009 what i hear you saying
Have you seen the movie “Precious”? I found it to be very moving, upsetting and enlightening.
I thought that the main character, Precious, gave us some excellent examples of the negative effects of trauma and abuse - be it physical, sexual, or emotional.
http://www.whatihearyousaying.com/escaping-trauma-examples-from-the-movie-precious/

『トラウマ』

宮地尚子/著 岩波新書 2013年発行

第6章 トラウマを耕す より

耕すということ

私は時々「トラウマを耕す」ということを考えます。トラウマというと、どうしても暗く重い話題が多くなり、眉間にしわを寄せて考えなければいけない気持ちになりがちです。けれども、もっと肩の力を抜いて、ゆったりと向きあってもいいと思うのです。精神科医で、長い間、統合失調症の患者さんたちと関わってきた星野宏氏は、「耕す」という言葉を用いて臨床現場での営みを豊かに工夫する術をさぐっています(星野宏『分裂症を耕す』『精神病を耕す』)。耕す(cultivate)は文化(culture)の語源でもあります。
トラウマも「耕す」ことによって、豊かになっていくのではないでしょうか。

映画での追体験

『トラウマ映画の心理学』を著した臨床心理学者の森茂起氏は、映画は、トラウマを描くために特別に優れた表現媒体だといいます。確かに言葉で説明しにくいさまざまな反応や症状が、映画の中では鮮明に描かれています。

映画を観ることで追体験ができるからです。映像の中の登場人物に感情移入して、さまざまな感覚や感情の疑似体験をすることが可能になります。
もちろん、映画は巨大産業で、資金獲得や宣伝もたいへんで、政治的にも利用されやすい媒体です。どんな悲劇が観客を引きつけるのか、誰を主人公として、また誰を潜在的、または顕在的な敵として描いているか、それによって社会にどのようなメッセージが与えられるかといった点は、批判的に見ていく必要があります。
そういう意味でも、『プレシャス』(リー・ダニエルズ監督、2009年)という映画は画期的です。米国ニューヨークのハーレムに住む、16歳際の黒人少女が主人公です。映画のタイトルは少女の名前からとられ、プレシャスとは「貴重」という意味です。けれども彼女は、肥満体で学校の成績も悪く、家では母親から召使い扱いされています。時々やってくる父親からは、3歳の時から性的虐待を受け、二度も子どもを産む羽目になります。虐待から肥満がおきやすいことは第2章でも述べました。何とも救いのなさそうな話です。けれども、フリースクールに移り、意欲ある女性教師から影響を受け、クラスメートとも衝突を起こしながら徐々に打ち解け、少しずつ言葉をもち、文章を書き始めることによって、プレシャスは生きる喜びを見出していきます。
映画表象の世界においては、白人中心主義が続き、1980年代からようやく、スパイク・リーなどが、黒人の目から見た黒人の生活世界を描くようになりました。けれども、そこで描かれる女性は、男性の目から見た姿でしかありませんでした。映画『プレシャス』の監督は男性ですが、米国で大人気のトークショーの女性司会者、オプラ・ウィンフリーなどが製作に関わっています。プレシャスから虐待事実を聞き出し彼女の力になる福祉担当者は、人気歌手で女優のマライア・キャリーがノーメークで演じています。
この映画は、ユーモアもあり、見やすく仕上がっていますが、同時にとてもリアルに性的虐待をとりまく状況を伝えているように思います。プレシャスは、妄想に近い空想的世界をもつことによって、かろうじて耐え難い現実を耐えています。父親から性的虐待を受けている最中、身体が逃れられないなら、せめて空想の中でハリウッドのスターになって逃れようとします。母親から物を投げつけられたり罵倒されたりした後も、アルバムの中の母の写真を見て、優しくてよい母親であることを想像します。近所でいじめを受けても、自分は有名人として人々から賞賛されていると空想します。
映画の中では、意識的に空想の世界に逃げ込もうとしているように見えますが、そういったことが無意識におきたり、だんだん習慣になってしまって、解離がおきているようにもみえます。そうすると現実の世界に留まることが難しくなってきます。彼女は、学校の先生や仲間のサポートでかろうじて現実に引き戻され、そこで自分を取り戻すチャンスを得ました。
母親の姿もとてもリアルでした。学歴も仕事もなく、自分の激しい感情の波にふりまわされる母親。彼女自身、虐待されて育ったのでしょう。
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かなり極端なストーリーだと思うかもしれませんが、実際にはそうまれなことではありません。日本においてもです。私も実際に何人もの性的虐待の被害者に会うまでは、養父・継父や、実父が加害者になるなんて、と信じられない思いでいました。けれど残念ながら、直接の保護権や指導権をもつ相手には「何をしてもいい」と考える親もいるのです。インセスト近親姦)のタブーなど、見つからなければ簡単に破られるものなのかと暗澹とさせられます。かつて米国で男性の性被害のグループ治療を見学したときには、父親からの性的虐待が多く、ひどく驚かされましたが、のちに日本でも同様の被害を診療の中で聞くようになりました。