じじぃの「千葉の小4女児虐待事件・愛はすべてを隠す?見て見ぬふりをする社会」

【衝撃】千葉虐待死事件、小4栗原心愛ちゃん母親に衝撃発言…

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=cpMnqaoltfo

千葉の小4女児虐待事件

【重要な記事】 千葉の小4女児虐待死に思う「児童相談所」の問題について

連日の様に報道されていますが、自分の子供を虐待する? 脳が、完全におかしいでしょう。
この父親は、幼少期どんなふうに育てられたのか? まずは、そこからでしょう。
結婚して、初めて気が付く、相手が「頭に障害を持った人だった」という事が。。。
そして、「共依存」の関係になれば、夫婦の関係を壊したくないが為に、父親がいけない事をしても、母親が見て見ぬふりをしてしまう事は十分に考えられます。
http://itwebkatuyou.com/28610

『見て見ぬふりをする社会』

マーガレット・ヘファーナン/著、仁木めぐみ/訳 河出書房新社 2011年発行

愛はすべてを隠す より

あらゆるドラマの中でも緊張感に満ちて危機的なのは、児童虐待によって引き裂かれた家庭だ。

我々はみな「他人による危険」は強く意識し、見知らぬ人や不審な人物から子どもを遠ざけておこうと大変な努力をするのに、いまだに児童虐待の大半は家庭内で行われ、子どもの顔見知りが犯人であることも多い。イギリスの全国児童虐待防止協会(NSPCC)によると、全体の16パーセントの子どもが16歳になるまでに性的虐待の被害に遭っている。こうした数字を見ると、みなこう思うだろう。どうしてそんなことが起きるのか、家族のような人数の場で虐待があるのに気づかないなんて。
NSPCCの児童保護啓発プログラムのリーダーのクリス・クロークは語る。「児童虐待の大半は家族や友人の犯行です。家族への愛、子どもへの愛など、たくさんの愛情がからんでいることが多く、そのせいで現状を認めたくないので、発見が非常に難しいのです。そもそも児童虐待というものが存在することさえ認めたがらない人たちがたくさんいます。さらにみな、家庭内でほとんどの虐待が起こるという事実を無視し、他人に危害を加えられることが危険と考えることを選びます」
NSPCCのフェリシティ・ウィルキンソンはチャイルドヘルプラインで、直接人々と接している。「子どもの母親の交際相手が虐待をしていることがよくあります。母親にとっては自分が愛している相手がそのようなことをするというのは、もっとも考えたくないことです。あきらかな兆候があっても、事実を理解するまでに長い時間がかかります」
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セレニーはいう。「シュペーア(元ナチス党員)はヒトラーを愛していました。そしてヒトラーはドイツを愛しているからそれで十分だ、そう思っていたんです。けれどヒトラーが抱いている野望が誤っているのを知ると、同じようには感じられなくなりました。ヒトラーに対しても、ドイツに対しても、自分に対しても。シュペーアの悲劇はポーゼンとドーラ(強制収容所)を目にした後、本当に死にたいと思ったことです。けれど生きようという意志が強すぎた。だから彼は残りの人生を、違う人間になろうとして苦しむことになったのです」
セレニーはシュペーアの戦後の人生を語ってくれた。それはシュペーアが知っていたことと知っていないはずのことの間の壮絶なせめぎ合いだった。議論はまだ続いていて、歴史家の中にはいまも「シュペーアの不服従」と呼ばれるものに懐疑的な者もいる。セレニーはシュペーアに好感を持っているようだが、彼の擁護はしない。セレニーは彼がしたことではなく、彼が最終的に物事をはっきりと見るためにどれだけ厳しく行動したかに感銘を受けているのだ。彼女はシュペーアの闘いに惹かれている。それは非常に人間的な闘いだからだ。
「知らなかったというのはいいんです。知らずにいることは簡単です。知ることはつらいけれど、少なくとも本当の、真実なんです。最悪なのは知りたくないときです。そうするととても悪いことになります。そうでなければ知ることがこんなに難しくはならないでしょう」
戦後のシュペーアの真実との闘いはある意味、ドイツの闘いでもある。知りたくないという気持ちを抱える一方で、真実を直視することが意味のある未来を作るための唯一の手段だと知っている。シュペーアは、ヒトラーが作ってくれた自分のイメージをまだ愛しているうちは違う人間にはなれない。ドイツが過去を愛しているうちは違う国にはなれないのと同じように、闘いの苦しみは誰もが経験するものだ。愛情を抱いていて、認め亡くない事実があるときは特に。開けたくないクローゼットを持つのは戦争犯罪人だけではない。
国、組織、個人は、愛や、自分を善人で価値がある重要人物だと思いたい気持ちから見て見ぬふりに陥る。自分の姿を現実とは違う形で信じたときに我々は無力になる。けれど愛する者の欠点や誤りが見えなくなっとときにも我々は無力になる。コルム・オゴーマンがいったように、我々は知らないふりをしたときに力を失う。これが見て見ぬふりのパラドックスだ。見て見ぬふりで安全になると我々は思うが、本当は危険に陥っている。