じじぃの「見ざる聞かざる言わざる・誰もあえて見ようとしないこと!見て見ぬふりをする社会」

トランプ政権が初めて中国の人権問題を批判 人身売買最低ランク国に格下げ 20170630 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=xY2lF8x1JrY
効果的な利他主義者になる方法 動画 TED
https://www.ted.com/talks/peter_singer_the_why_and_how_of_effective_altruism?language=ja

PTSD and moral injury

見て見ぬふりをする社会 マーガレット ヘファーナン (著) amazon
●トップカスタマーレビュー
これは大変恐ろしい本だ。
目の前にあるものが見えない、見えているのに過小評価してしまう、「見て見ぬふり」。
その結果がろくでもない(時には破滅的に悲惨な!)ことは、誰にでもわかっている。
誰も、好き好んでやるわけではない。
しかし、本書に並ぶおびただしい事例は、「見て見ぬふり」が人間にとって本能的なものであり、生理学的に不可避ですらあることを示している。
それは、寝不足によって、家族や仲間を大切にすることによって、権威を尊重することによって、平和に楽しく暮らしたいと願うことによって、誰にでも起こる。
誰も、「見て見ぬふり」から先天的に逃れることはできないのである。

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『見て見ぬふりをする社会』 マーガレット・ヘファーナン/著、仁木めぐみ/訳 河出書房 2011年発行
告発者 (一部抜粋しています)
監察官は再検討を命じられたが、またもやポンプは問題がないという結論を出した。するとOSC(特別検察局)は前例のないことだったが、民間の技術の専門家に入手できるすべての情報の分析を依頼した。この専門家の報告はハリケーンカトリーナの後のニューオーリンズに設置された排水ポンプは適切に町を守ることができないこと、そして実績のある機材を購入することで、陸軍工兵隊は交換のためのコストを4億3000万ドル節約することができる、というものだった。これでマリア・ガルジーノの長年の苦労は完全に報われた。
「私の主張がすべて裏付けられました。このことが始まってからの4年間の中で最高の日でした。私の苦労が完全に報われました」
陸軍工兵隊と戦い、強大な請負業者と戦うという、長く恐ろしい闘いとなった。それでもなぜ、途中であきらめなかったのか? と私は訊いた。技術への情熱的な愛(それに下手な工事を嫌う気持ち)も理由の1つだったという。はじめたことは最後までやるという決意と、国民の信頼への真剣な情熱もあったという。しかしガルジーノの決意の鍵は、すでにひどい目にあっているニューオーリンズの人々のために、誰かが立ち上がらなければいけないという気持ちだったという。
「ポンプの設置予定地に車で行ったときでした。辺りはがれきでいっぱいで、彼らは思い工事車両を通すためにがれきを撤去していきました。そのときに8歳の女の子の遺体が引き上げられたんです。誰もあえて見ようとはしませんでした。いま起きた出来事をみな認めた句なかったんです。でもそれこそ心の一番大事なところで認めなければいけないことでしょう! その話をしないと! けれど彼らは目を向けようとさえしませんでした。本当につらい出来事を人はみたがらないものです。こういうことが起こるのは、みなが見たくないと思っていても、本当はなにが起こったのか認識しているからです。あの日あそこにみんないたのに。誰もあのことについて話そうとしませんでした」
ガルジーノはみなが認めたたくないと思う事実を直視し、それをふまえた上で、本来必要な行動をした。彼女は、軍に対する責任感だけでなく、軍が守るべき人々に対しても強い責任感を持っていた。
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カサンドラと捕虜虐待などの内部告発者は、我々に見て見ぬふりを乗り越える強さを見せてくれる。これは英雄的なことに感じられるかもしれないが、現実の人生で英雄的な経験をすることはほとんどない。スティーヴ・ボルシンやジョー・ダービーのような男性や、マーガレット・ヘイウッドやゲイラ・ベネフールドのような女性たちは、無力な人たちの目を通して見ることができ、そしてその目で見たものの彼らの人となりや、善悪の判断を変えていった。しかしこの変化は、大きな犠牲の上に起こったものだ。彼らはすべてを見通せるようになったかわりに、そのとき置かれていた現状を壊すことになったからだ。
カサンドラと周囲の世界の対決はとても深遠なテーマであり、我々に数々の物語を与えてくれる。『オイディプス王』の要となるドラマは、真実を求める情熱と幻想を持っていたいという欲求の衝突だ。ユージン・オニールの戯曲『氷人来たる』に登場するヒッキーはハリー・ホープのバーにたむろする人々の自堕落的な生活を支える夢を打ち壊し、イプセンの戯曲『野鴨』ではグレーゲルス・ヴェルレが一家の秘密を暴こうと決意し、シェイクスピアの『オセロ』ではエミリアがオセロの嫉妬の愚かさを明かすが、みな真実を伝えた者は罰せられている。こうした悲劇ばかりの戯曲が示しているのは、直視するのが耐えがたいような真実が、いくつもの幻想を打ち砕くことがあるということだ。カサンドラには、真実が見えるかもしれないが、真実は強い力を持っているから隠しておかねばならなかったり、真実を暴くことによって変化を迫られたりしたせいで、怒りを買う。我々は真実を述べる者に味方するが、劇場という安全地帯では、真実の犠牲に耐える必要がない。

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どうでもいい、じじぃの日記。
図書館から、マーガレット・ヘファーナン著『見て見ぬふりをする社会』を借りてきた。
表紙には、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿の絵が描かれている。
「見て見ぬふり」というのは、心理学的には結構深い意味があるのだそうだ。
見て見ぬふりの習慣の根は深く、何千年にもわたって進化してきた神経生理学的現象で、文化的な快適さを求めてきたことと、無縁ではないのだとか。
本にいろいろな見て見ぬふりの例が書かれているが、アメリカの兵士について多くのページが割かれている。イラク戦争に行き帰ってきた兵士のことだが、PTSD心的外傷後ストレス障害)と診断されたら、職にありつくことが難しいとか。
見て見ぬふりの社会にならないためには、多様な社会であることだ、と書かれていた。