じじぃの「科学・芸術_213_気候変動・ジャガイモ飢饉」

The Irish Potato Famine 動画 YouTube
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 太陽活動の影響

アイルランドのジャガイモ飢饉

『気候文明史』 田家康/著 日本経済新聞出版社 2010年発行
氷期の気候と歴史 (一部抜粋しています)
1815年4月、スンバワ島のタンボラ火山の大噴火が起きた。タンボラ火山は4月5日から噴火を始め、最も激しくなったのが同月の11日から12日にかけてで、噴出量は150立方キロメートルに及び、3ヵ月後のタンボラ火山の標高は1200メートル以上も低くなった。火山の周辺300キロメートル圏内では3日間にわたり日中も真っ暗になり、火山灰はスンバウ島のサンガールで91センチメートル、バリ島で30センチメートルも積もった。噴火のあったスンバワ島の島民1万2000人のうち生存者はわずか26名あったと、チャールズ・ライエルは『地質学原理』に記録を残している。さらにインドネシアでは、直後の気温の低下と噴火にともなう地震により、餓死者を含め9万2000人が死ぬ大惨事となった。
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天保の飢饉は、1833年に始まり1837年にピークを迎え、1840年の大豊作まで7年間続いたもので、暖冬と冷夏という組み合わせによるヤマセ型の冷害が続いたことが原因とみられる。厳冬時の間、日本列島はシベリア高気圧とオホーツク海低気圧の気圧差が大きくなることで西方から強風が吹くものだが、天保の飢饉の際には大風といった記録はほとんどなく、天明の飢饉にあったような大火の発生や西回り廻船の欠航も顕著ではない。また、宝暦の飢饉や天明の飢饉と比べて晴天率が高く、1月から6月にかけては平年と比べても晴れの日が多く続いた跡、7月8日になって東風が吹き、曇天となるといった特徴があった。
1833年天保4年)、津軽で4月下旬以降日照りで渇水騒ぎとなったが、6月を過ぎて一転して大雨となり東からの強風が吹いた。盛岡付近の場合、5月下旬以降に長雨と低温となり、8月下旬に早くも霜害が始まって、9月1日に大霜が降り大凶作が確定的になった。
1836年(天保7年)になると、盛岡藩で「春以来風強く夏になっても暑気薄く、『悪風』は9月まで続いた」とあり、稲は田植えの段階で苗の根つきが悪く、7月の盆を過ぎても3分の1しか出穂しなかった。
農作物の不作が連続して発生し、作柄をみると全国平均で、1833年が52、5%、1835年は57、2%、1836年が42、4%とおよそ半分減少しており、奥州ではそれぞれ35%、47、2%、28%と大凶作となった。冷害は1838年まで続き、餓死者が大量に発生した。弘前藩では餓死(7万4860人)と疫病死(2万6000人)により、藩内人口の半分が死亡した。
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夏の長雨による大飢饉は、アイルランドでも1845年に始まった。世に知られる「ジャガイモ飢饉」である。米国からの貿易船でヨーロッパに持ちこまれたとされるジャガイモ疫病菌(Phytophthora infestans)は、7月にベルギーで最初の感染報告がされた後、ヨーロッパ全土に広がった。アイルランドでは、8月下旬にダブリンの植物園で感染が発見されるや長雨と低温により大発生し、10月にはジャガイモの4割が畑の中で腐ってしまう事態となった。
1846年から1848年にかけても、ジャガイモ疫病菌は猛威を振るった。アイルランドでは住民の食糧だけでなくイングランドへの輸出品としてもジャガイモに依存していたため、全島で大打撃を被ることになる。1841年に800万人越えていた人口は650万人に減少しておりそのうち80万人から100万人が死亡したと推定されている。残りの50万人以上がブリテン島やヨーロッパ本土、米国、カナダへの移民となった。ケネディ家がアイルランド南東沿岸部のニューロスからボストンに移民するのも、1848年10月である。移民の動きはジャガイモ飢饉以降も止まらなず、1860年代まで人口減少が続いた。
天保の飢饉とアイルランドのジャガイモ飢饉は、小氷期の最後に起きた大飢饉とされる。ただし、黒点数からみた太陽活動の低下は1830年代には回復しはじめており、暖かい気候に転換する過程での自然の「ゆらぎ」であった可能性が高い。1850年代になると、10年単位の寒暖はあるものの、気温上昇の徴候が現れるようになった。