じじぃの「人種差別・自由黒人ソロモン・ノーサップの苦闘!それでも夜は明ける」

Solomon Northup

Solomon Northup

Solomon Northup (born 1807 or 1808 - died abt 1863), he was born free.
In 1841, he was offered a traveling musician’s job and went to Washington, D.C. In D.C. he was drugged, kidnapped, and sold into slavery. Northup was shipped to New Orleans, purchased by a planter, and held as a slave for 12 years in the Red River region of Louisiana, mostly in Avoyelles Parish. He remained enslaved until he met a Canadian working on his plantation who helped get word to New York, where state law provided aid to free New York citizens who had been kidnapped and sold into slavery. His family and friends enlisted the aid of the Governor of New York, Washington Hunt, and Northup regained his freedom on January 3, 1853.
https://aalbc.com/authors/author.php?author_name=Solomon+Northup

『映画になった奇跡の実話 これが美談の真相だ』

鉄人ノンフィクション編集部 鉄人文庫 2021年発行

12年間、奴隷生活を強いられた「自由黒人」ソロモン・ノーサップの苦闘

本書でも複数の記事で取り上げたように、アメリカには人種差別を題材とした映画は数多くあるが、その源である奴隷制度を正面から扱った作品はほとんどない。2013年度のアカデミー賞で最優秀作品賞に輝いた「それでも夜は明ける」は19世紀半ば、奴隷として売られ12年後に開放された黒人男性ソロモン・ノーサップの過酷な体験を、本人の回想録に基づき映像化した歴史ドラマである。
アメリカでは、イギリスによる植民地開発時代の17世紀半ばより、アフリカから連れてきた黒人を奴隷とすることが合法化されていた。裕福な白人家庭が「所有物」として彼らを買い滅私奉公を強いたばかりか、奴隷法は黒人に対する暴力も認めていた。
本作の主人公ソロモン(1808年生)の父親も若い頃、奴隷として働いていたが、主人の死により解放されニューヨーク州へ移住。当然ながら息子ソロモンは一度も奴隷経験がなく、読み書きもできる普通のアメリカ人として育った(このように、主にアメリカ北部に居住していた奴隷ではない黒人は「自由黒人」と呼ばれた)。
ソロモンは成人して、地元の舞踏会に引っ張りだこのヴァイオリニストして活躍。1828年、黒人女性アン・ハンプトンと結婚し3人の子供(劇中では2人)を授かり、何不自由のない暮らしを送っていた。
人生が一変するのは1841年、ソロモンが32歳のとき。サーカス会社のスタッフを名乗る男2人組からヴァイオリン走者として公演に酸化しないかとの誘いを受けワシントンD.C.に向かったところ、食事中に睡眠薬の入ったワインを飲まされ、小屋に監禁される。目覚めたとき手首は鎖で繋がれており、やがて現れた見知らぬ男性から「おまえはジョージア州出身の逃亡奴隷だ」と告げられる。男の正体は奴隷商人だった。
ソロモンは自分が「自由黒人」であることを主張するが、男は聞く耳を持たずソロモンを奴隷市場へ連行。そこで、ルイジアナ州で農園を営むウィリアム・フォードに売却する。映画では説明されないが、当時、アフリカからの奴隷輸入が禁止されていたことから、綿花畑などを営む南部の人間に奴隷のニーズが高まっており、ブローカーたちは誰彼構わず黒人を誘拐、高値で売りさばいていた。ソロモンもその標的になったのだ。
また、劇中の奴隷市場のシーンで、ソロモンとともに黒人の母子を買うことを申し出たフォードに対し商人が母親のみ売却したのは、意図的に家族関係を断ち切るためだ。親子や兄弟を同じ場所に売ると、結束して主人に歯向かうので家族はバラバラにする。当時はそれが黒人奴隷を支配する常套手段だった。
ソロモンはフォードの奴隷として、材木の市場価格算定の仕事に就く。映画のとおりフォードは信仰心が篤(あつ)く温和な人物だったが、1842年冬、経済難から奴隷を売却。ソロモンはフォードの水車場で大工として働いていたジョン・ティビッツに買われた後、1843年初め、ニューオーリンズに広大な綿花畑を持つエドウィン・エップスに売り払われる。
エップスは無差別に奴隷を虐待しては馬車馬のように働かせる残酷な主人だった。毎日、綿花摘みのノルマを奴隷に課し、達成できなかった者に容赦なくムチを打ちつけたのは劇中で描かれるとおりで、ソロモンは後にムチ打ちの音を聞かない日はなかったと回想している。
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エップスの奴隷として9年が過ぎた1852年、奴隷労働者のカナダ人大工サミュェル・バスが農園を手伝うようになる。ソロモンは、奴隷制度に反対の意思を示す彼と話すうち信用を置き、自分が自由黒人であることを告白。再び手紙を投函してくれるよう依頼する。宛先は、故郷の知り合いだった商店主シーファス・パーカーだった。
バスが頼まれたとおり手紙を出したことで、ソロモンの所在を知ったパーカーがエップスの農園を訪れソロモンを救出。故郷の家族と再会を果たし、映画は終わる。
しかし、実際にソロモンを助けに来たのは、彼の幼馴染であるヘンリー・B・ノーサップなる弁護士だ。ヘンリーはパーカーからソロモンの妻アンに転送された手紙を受け取り、ソロモンが自由黒人である証明書をエップスに見せつけ、解放を納得させた。1853年1月4日。ソロモンが奴隷になってから12年の年月が流れていた。
自由の身になったソロモンは、自分をジョージア州出身の奴隷と偽り不当に売り払ったとして奴隷商人の男を告訴したが、白人が被告の裁判で黒人の証言は許されず、結局、商人は無罪に。同様に誘拐の実行犯も訴えたものの、最後まで行方がわからなかった。
その後、ソロモンは映画の原題にもなっている回想録『12イヤーズ・ア・スレイブ』を出版。奴隷制度廃止運動家として、北米を中心に自身の体験を語る講演を行ったが、彼の歴史的記録は1857年を最後に消えており、死に関する事情も一切わかっていない。
奴隷制存続を主張する南部11州と、リンカーン大統領を指揮官とした北部23州が戦った南北戦争が勃発するのは1861年。4年後の1865年、北軍の勝利により奴隷制は終焉を迎える。

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