じじぃの「日本の経済成長・明暗を分けた2つの時代の援助!『戦争の文化』」

高度経済成長とその後の日本

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BTHNSxsfaa8

「3C」時代の到来 高度経済成長と暮らしの変容

キッズコーポレーションのハイスクールタイムス
●- 「3C」時代の到来 -
1960年代に入ると、カラーテレビ・自動車・クーラーが「新・三種の神器」と呼ばれ、すべて頭文字が「C」であることから「3C」とも呼ばれました。「3C」時代の到来です。
日本でテレビのカラー放送が始まったのは1960年のことですが、当初はカラーで放送される番組も少なく、カラーテレビ自体も非常に高価だったため、あまり普及しませんでした。しかし、1964年の東京オリンピックがカラーで放送されたことなどで、60年代後半にはカラーテレビも普及していきます。それに続いて、自動車やクーラーを個人で所有することも珍しくなくなっていきました。
ところで、高度経済成長は人口の都市への集中を促したため、都市の過密(交通渋滞や大気汚染、住宅不足など)が問題となります。こうした問題を解決するため、50年代後半以降、大都市の郊外に団地が設けられ、のちにはさらに大規模なニュータウンも開発されていきました。
団地が登場した当時、水洗トイレやお風呂、ダイニング・キッチンを各戸に備えた団地は近代的で豊かな生活の象徴であり、都市で働く人々の憧れでした。住宅事情のよくない過密な都市に暮らす人々にとっては、郊外の団地に引っ越したり、マイホームを建てたりすることが、豊かな生活を送るためのひとつの目標となりました。
「人類の進歩と調和」をテーマに掲げて1970年に開催された大阪万博には、ますます豊かになっていくであろう明るい未来への期待が込められており、大阪万博と連動して開発された広大な千里ニュータウンは、高度経済成長を通じて形成された新しいライフスタイルが実践される場となりました。
http://www.highschooltimes.jp/news/cat13/000234.html

『戦争の文化(下)――パールハーバーヒロシマ・9.11・イラク

ジョン・W.ダワー/著、三浦陽一, 田代泰子, 藤本博, 三浦俊章/訳 岩波書店 2021年発行

第15章 市場原理主義 より

2つの時代の援助

イラク復興をめぐる論争がピークに達していた2003年9月、ブッシュ大統領は再び日本とドイツの例を持ちだした。9月7日の演説で、大統領は「アメリカはこういったことを過去に成し遂げたことがあります」と語った。「第二次世界大戦後、アメリカは打ちひしがれた日独両国民を鼓舞し、時間と資源を投じて民主的な政府の構築を支援したのです」。さらに9月23日には国連総会で、アメリ連邦議会に予算の追加支出を求め、「われわれのイラクでの仕事は、この種のものとしてはマーシャル・プラン以来、最大規模です」と説明した。
たしかに、おおよその支出額はマーシャル・プランに近かった。米議会調査局が2006年3月に発表した報告書によると、2003年から2006年までにアメリカがイラクに支出した援助の総計は289億ドルで、そのうち176億ドル(62パーセント)が経済と政治の再建に向けられ、残りは治安の改善に使われた。報告書は結論として、「これまでイラクに支出した援助は、(インフレ率を調整すると)1946年から1952年にかけてドイツに支出した援助の総額とほぼ同じであり、同時期の日本に出した援助のほぼ2倍」であるとしている。2005年の水準に換算すると、アメリカからドイツの援助は293億ドルで、うちマーシャル・プランによるものが93億ドルであった。同じ1946年から1952年の日本への援助総額は、2005年水準に換算すると152億ドルであったが、日本向け援助の大半は経済復興の目的ではないと記されている。
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戦後初期の日本占領とイラク占領では、援助の開始の仕方の違いと並んで、経済政策の立案者の基質の違いも大きい。ヨーロッパでは経済復興に取り組む決定が下されたのは遅かったが、いったんそれが始まると細心の注意が払われた。資金の使途や執行においては、援助を受ける側の役割が重要とみなされた。最終的には、西ヨーロッパの約17ヵ国がマーシャル・プランの恩恵を受けた(受け取った総額では、ドイツは英仏伊の次であった)が、使途の決定には援助を受けた国が主導権を持ち、アメリカはそれに拒否権を行使できる仕組みになっていた。ヨーロッパ諸国の参加は、ヨーロッパ経済協力会議(のちヨーロッパ経済協力機構と改称)を通して行われ、これがのちのヨーロッパとうごうへの礎石のひとつとなった。

「忘却の時代」

戦後日本の計画経済と保護主義は、おそらく必要以上に長く存続した。しかし、その全盛期においては、希少資源の配分、長期的思考の推奨、国家の必要と私的利益の調整といった点で合理的な方法であった。脆弱な日本が世界市場で競争するためにも、社会保障体制をつくるためにも、そして国内競争を刺激するためにも、混合経済体制は理にかなっていた。世界はその成果に注目し、「奇跡」と(やや誤って)称賛されたこともあった。

日本の実質成長率は、1960年代は年平均およそ10パーセント、1970年代と1980年代は4パーセントから6パーセントであった。30数年前、廃墟の中でやり直そうともがいていた日本国民の大多数が、この繁栄の恩恵にあずかった。

9.11事件とイラク戦争が起こる以前、こうした占領の教訓のほとんどは、すでに歴史の墓場行きになっていた。「グローバリゼーション」「民営化」「アウトソーシング」「政府機能の縮小」といった市場原理主義的信仰が、日本占領において中核的であった計画や業務にとってかわった。ブッシュ政権のトップレベルは、官僚による計画づくりを侮蔑した。異なる意見に耳を傾けることも、最悪の場合を想定した計画を準備することも考慮の外であったから、彼らが戦術的にも戦略的にも愚行に走るのは、ほとんど不可避であった。
イラク人の専門的能力を信用せず、縁故主義汚職に染まり、目前の必要事に追い立てられた結果は、日本占領とはまったく逆のものになった。再建と復興が、イラク人自身にではなく外国の利権屋たちの手にゆだねられたのである。その心理的・経済的な悪影響は目に見えていたが、宣伝屋や荒稼ぎをねらう者たちは意に介さなかった。民営化とアメリカ主導の国際資本主義に反する政策は、スターリン主義とかバース党のような全体主義の命令経済だとして、すべて却下された。市場原理主義という万能の決まり文句が、これまでの歴史も文化も人間の心理も常識も、下水口から洗い流してしまった。危険を知らせる徴候や警告に注意をうながした人も、軍民の官僚機構の中堅以下には少なくなかったが、相手にされなかった。
社会工学あるいは国家建設という観点からみて、占領期の日本や、その国家と民間の経済的混合のあり方から「教訓」を機械的に取り出すことはできない。日本占領とイラク占領は、時期も場所も違う別物である。しかし、問題のとらえ方に関するごく一般的な「教訓」なら引き出せる。歴史的思考を活用すること、他人の目にどう見えるかといった他者感覚の大切さ、法的正当性を維持すること、公的必要と私的利害のバランス、長期計画の重要性、搾取や不当利得を規制すること、最大限の透明性と説明責任を表明し、かつ実践することなどである。
忘れたいから忘れるという文化が支配し、歴史が自分の好みに合うものだけを選ぶスーパーマーケットのようになれば、戦争、占領、解放、和解、復興も、うまく遂行することはできない。