じじぃの「科学・地球_320_新しい世界の資源地図・中東・湾岸戦争」

米兵に取り押さえられた直後のサッダーム

サッダーム・フセイン

ウィキワンド(Wikiwand) より
2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生。
9・11テロについてもサッダームは演説で「アメリカが自ら招いた種だ」と、テロを非難せず、逆に過去のアメリカの中東政策に原因があると批判、同年10月20日まで哀悼の意を示さなかった。
同時テロ以降のアメリカ合衆国は、アルカーイダを支援しているとしてサッダーム政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。もっともイラク攻撃自体はアメリカ同時多発テロ事件以前から、湾岸戦争時の国防長官であった副大統領ディック・チェイニーや国防長官ドナルド・ラムズフェルドを中心とする政権内部の対イラク強硬派、いわゆるネオコンらによって既に議論されていたようである。ただし、サッダーム政権転覆計画については、前のクリントン民主党政権から対イラク政策の腹案の一つとして存在していた。
2002年1月、アメリカ合衆国ジョージ・W・ブッシュ政権は、イラクをイランや北朝鮮と並ぶ「悪の枢軸」と名指しで批判した。2002年から2003年3月まで、イラク国際連合安全保障理事会決議1441に基づく国連監視検証査察委員会の全面査察を受け入れた。
2003年3月17日、ブッシュは48時間以内にサッダーム大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。サウジアラビアアラブ首長国連邦バーレーンは戦争回避のために亡命をするように要請したがサッダームは黙殺したため、開戦は決定的となった。
2003年3月20日ブッシュ大統領は予告どおりイラク大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。

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新しい世界の資源地図――エネルギー・気候変動・国家の衝突

ヤーギン,ダニエル【著】〈Yergin Daniel〉/黒輪 篤嗣【訳】
地政学とエネルギー分野の劇的な変化によって、どのような新しい世界地図が形作られようとしているのか?
エネルギー問題の世界的権威で、ピューリッツァー賞受賞者の著者が、エネルギー革命と気候変動との闘い、ダイナミックに変化し続ける地図を読み解く衝撃の書。
目次
第1部 米国の新しい地図
第2部 ロシアの地図
第3部 中国の地図
第4部 中東の地図
第5部 自動車の地図
第6部 気候の地図

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『新しい世界の資源地図――エネルギー・気候変動・国家の衝突』

ダニエル・ヤーギン/著、黒輪篤嗣/訳 東洋経済新報社 2022年発行

序論 より

本書では、この新しい地図を読み解いていきたい。世界における米国の地位はシェール革命でどう変わったか。米国vsロシア・中国の新冷戦はどのように、どういう原因で発生しようとしているか。新冷戦にエネルギーはどういう役割を果たすのか。米中の全般的な関係は今後、どれくらい急速に(どれくらいの危険をはらんで)「関与」から「戦略的競争」へ推移し、冷戦の勃発と言える様相を帯び始めるか。いまだに世界の石油の3分の1と、かなりの割合の天然ガスを供給している中東の土台はどれくらい不安定になっているか。1世紀以上にわたって続き、すっかり当たり前になっている石油と自動車の生態系が今、新たな移動革命によってどのような脅威にされされているか。気候変動への懸念によってエネルギー地図がどのように描き直されているか、また、長年議論されてきた化石燃料から再生可能エネルギーへの「エネルギー転換」が実際にどのように成し遂げられるか。そして、新型コロナウイルスによってエネルギー市場や、世界の石油を現在支配しているビッグスリー(米国、サウジアラビア、ロシア)の役割はどう変わるのか。
第1部「米国の新しい地図」では、突如として起こったシェール革命の経緯を振り返る。シェール革命は世界のエネルギー市場を激変させ、世界の地政学を塗り替え、米国の立ち位置を変えた。シェールオイルシェールガスが、21世紀の現在まで最大のエネルギーイノベーションであると言える。
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中東では古代から数々の帝国の興亡とともに、国境線が絶えず引き直されてきた。オスマン帝国の治世は600年続いたが、そのあいだも国境線はしばしば変わった。近代の中東の地図は第一次世界大戦中から戦後にかけて、オスマン帝国の崩壊で生じた権力の空白の中、オスマン帝国時代の行政区画にもとづいて定められた。以来、この地図は拒まれ続けている。汎アラブのナショナリズムや政治的イスラムによって、イスラエル建国に反対する勢力によって、さらには「国民国家」そのものをなくしてカリフ制を復活させようとする、イスラム国(ISIS)などのジハーディスト(聖戦主義者)によってだ。今日の中東が抱える最大の問題は、スンニ派サウジアラビアシーア派のイランの覇権争いに由来する。そこへ近年、トルコがオスマン帝国に遡る正統性を持ち出して、新たに中東の盟主として名乗りを上げたことから、状況はさらに混迷を深めている。しかし中東情勢の背景には、40年に及ぶ米国とイランの対立や、多くの国で常態になっている統治の弱さもある。
もちろん中東には、国境線の地図意外にも重要な地図がある。地質の地図や、油田と天然ガス田の地図や、パイプラインとタンカーの航路の地図だ。

第4部 中東の地図 より

第28章 湾岸戦争

ペルシャ湾に米国を深入りさせる原因になったのは、イラン革命だけではなかった。1979年のクリスマスイブ、ソ連アフガニスタンに侵攻した。アフガニスタン共産主義勢力のリーダーと米国とのあいだで密約が交わされたと誤解し、集団的なパラノイアに陥ったことによる発作的な行動だった。米国政府はこの侵攻に強い衝撃を受けた。ソ連が共産圏外に大規模な軍隊を派遣するのは、第二次世界大戦以来初めてだった。パフラヴィー2世が去って湾岸の安全保障体制が崩れ、イランにはもはや地域の警察官としてソ連の動きを取締まろうとする気がない。そういう中で発生したアフガニスタン侵攻は、ソ連による湾岸地域への侵攻と中東の石油の掌握の第一歩になると見られた。
1980年1月、ジミー・カーター大統領は側近に、「説教する必要がある。ソ連が侵攻すれば米国は軍を送るということをペルシャ湾岸の国々にわからせ、自分の身を守らせよう」と告げた。一般教書演説には、次のような宣言を盛り込まれた。「ソ連によるアフガニスタン侵攻は、世界の平和にとって第二次世界大戦の以来最も深刻な脅威となりうる」。コのアフガニスタン侵攻の対応が、カーター・ドクトリン[政治・外交の基本原則]となった。それはハリー・トルーマン以来歴代の大統領が言ってきたことを踏まえたものだった。
ペルシャ湾岸地域の支配権を獲得しようとする外部勢力の企てはすべて、米国の死活的な国益への攻撃と見なされる」とカーターは述べた。「そのような攻撃を退けるためには、軍事力を含め、あらゆる必要な手段が公使されるだろう」。米国は10年前まで英国が担っていた、湾岸地域と石油を守るという直接的な安全保障上の役割を担っていた。ソ連政府にとってこの侵攻は、想像していなかったほど甚大な犠牲を伴うものになった。というのは結果的に、これがソ連の崩壊につながったからだ。加えて、アフガニスタン侵攻は新しいジハード主義にも火をつけた。やがてジハード主義の影響が世界中に広がり、アラブ世界の心臓部にも達して、中東を危機に追い込むことになる。
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1990年の夏、イラク・イラン戦争の停戦からまだ2年も経っていなかった。しかし、サダムは再び地域の国境線を描き換える決意を固めた。8月2日早朝、イラクが自国の「銀行家」であり、石油資源に富むクウェートに侵攻すると、クウェートは2日もせずに制圧された。サダム政権はただちにクウェートを地図から消し去りにかかった。イラク軍のハンドブックで「クウェートイラク化」と呼ばれたその作戦は、残忍な恐怖支配と略奪とともに実施された。クウェートの弘安担当に任じられたサダムの兄弟は、サダムに作戦の実施状況を次のように報告している。「拷問を終えたあとも、手荒に扱いました。情けはいっさいかけず、最後には殺して、埋めました」。
1990年8月、クウェート侵攻から時を置かず、イラク軍がクウェートサウジアラビアの国境に集結し始めた。イラクサウジアラビアに進軍して、世界の石油確認埋蔵量の25%を占めるサウジアラビアの油田を奪うつもりなのか。イラクは世界の「大部分を手に入れる好機と見ている」と、当時英国の首相だったマーガレット・サッチャーが、米国のジョージ・H・W・ブッシュ大統領に伝えた。「サウジアラビアの石油を失ったら、取り返しがつかない」。
クウェートを制圧したサダムは、世界の石油確認埋蔵量の約20%を手中に収めていた。さらにサウジアラビアの油田を得れば、45%を押えることになる。たとえサウジアラビアに攻め入らなくても、世界の石油埋蔵量の3分の2を占めるペルシャ湾で支配的な影響力を行使できるだろう。要するに、世界の石油の裁定者になれるということだ。
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ジョージ・W・ブッシュが2001年、大統領に就任した。父ブッシュがビル・クリントンに大統領選で負けてから8年後のことだ。その2001年の9月11日、アルカイダ工作員が民間航空機を乗っ取って、ニューヨークの世界貿易センタービルとワシントンDCの国防総省を攻撃し、2977人の命が失われた。米国は「対テロ戦争」を宣言し、まず最初に、アルカイダをかくまっていたアフガニスタンタリバン政権に報復した。次のステップとして、サダムの排除をジョージ・W・ブッシュ政権の一部が進言した。1991年に連合国がバグダードの手前でやり残した仕事を、やり遂げるべきだという主張だった。イラクアルカイダと結託していると論じる者もいたが、多くはそれには強く反論し、予測的なバース党原理主義アルカイダとのつながりはほとんどないことを指摘した。1つ確かなのは、制裁とイラクの封じ込めが効かなくなってきていることだった。
しだいに関心は大量破壊兵器に向けられるようになった。サダムは新たな大量破壊兵器計画を企んでいるに違いないと考えられた。
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侵攻から9ヵ月後、米陸軍の兵士が果樹園の地面に敷かれていた絨毯を足で蹴って脇へどかすと、下に発泡スチロールのブロックでふさがれた穴が見つかった。兵士が穴の中に手榴弾を放り込もうとすると、中からサダム・フセインが現れた。髪は乱れ、ひげもボウボウで、ひどく汚らしい姿だった。中東地域の支配者、中東の「英雄」、石油王になろうとした男が、うさぎの穴ほどの広さの穴に隠れていた。護身用の銃数丁と、75万ドルの現金が詰まったスーツケースを抱えて。

開戦の根拠である大量破壊兵器は発見されなかった。それどころか、サダムがじつは前の戦争での戦争での警告を真剣に受け止め、大量破壊兵器の開発計画を破棄していたことがわかった。

ただし「すぐに再開できる」状態は維持していたようだ。サダムは開戦前に、大量破壊兵器を持っていないことを公にすれば、米国の戦争の根拠を覆せたはずだった。しかしそうすることは、自分が誤りうることを国民に伝えることを意味した。また、それよりさらに重要な理由もあった。大量破壊兵器の有無をあいまいにしていたのは、抑止力のためだった。では、誰の行動を抑止しようとしていたのか。FBIの尋問にサダムが1語で答えている。「イラン」と。
サダムはのちに人道に対する罪で死刑を言い渡されて、処刑された。