安楽死「死ぬ義務」生じかねない 生ききるための支援を
2021/5/31 西日本新聞
完治が望めず耐え難い苦しみがある患者の意思に基づき、医師が致死薬を投与し死期を早める安楽死。
欧米を中心に認める国が少しずつ増える一方で、フランス議会は4月、合法化を見送るなど各国の対応は揺れている。日本はどう向き合ったらいいのか。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/747398/
第5章 無邪気な「安楽死政策」待望論 より
「ポストマ事件」
スイスではあくまでも「幇助」というスタンスであるのに対し、明確に「安楽死」として法制化したのがオランダです。オランダ大使館のホームページにも「安楽死」という項目があり、<耐え難い心身の苦痛に苛まれ、治癒の見込みがないとされている患者は医師に対して人生の終焉を要求することができます。オランダの法律下では特定の条件を満たした場合においてこれを許諾することができます>と明記されています。
オランダで安楽死をめぐる議論が活発化したのは、1971年に起こったある事件がきっかけでした。ヘルトルイダ・ポストマという医師が、脳溢血により半身麻痺状態にあった自身の母親を安楽死させた「ポストマ事件」です。
ポストマ医師の母親は、脳溢血で倒れた後、部分麻痺や失禁症、聴覚障害、言語障害などで苦しんでいました。やがて彼女は、自分の娘に安楽死を請うようになります。最初は断っていたポストマ医師も、何度も自殺未遂を繰り返す母親の姿を見て、彼女を安楽死させることを決意しました。ポストマ医師がモルヒネを注射した数分後に、母親は亡くなっています。
その後、ポストマ医師は嘱託殺人の罪で起訴されました。2年に及ぶ裁判の末、地方裁判所は「患者の苦痛を取り除くための鎮痛剤投与は認められる」という判断を示しました。ポストマ医師には、禁錮1週間(執行猶予1年)という形式刑が下されています。
この判決を契機に、オランダの王立医師会も「治療の望みがない」「自発的な要請」であることを条件に鎮痛剤投与を容認し、治療の停止や苦痛の緩和、さらに安楽死が行われるようになりました。2001年に可決された「要請に基づく生命の終焉並びに自殺幇助法」は、オランダの現実を法が後追いしたと言えます。
安楽死を認めるべきなのか
2020年7月、れいわ新撰組からの立候補を予定していた大西つねき氏が、自身のYouTubeチャンネルで「どこまで高齢者を長生きさせるかっていうのを、真剣に考える必要がある」という自説を唱えたことから、党を除籍されました。
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れいわ新撰組にはALS患者や重度障害者の議員がおり、彼らの議員活動そのものが障害者運動になっているともいえますが、その党の公認候補が「命の選別」を主張している。この現実は、重く受け止める必要があります。終末期医療と金銭的・時間的な負担が結びつけられる背景には、人の命までコストや生産性といった経済活動の視点で評価するような思想が浸透している証です。
しかし、そうした新自由主義的な経済合理性で命の線引きをするようなことを許してしまえば、間違いなく「選択的な命の切り捨て」につながっていきます。これまでの「優生学がもたらした負の歴史」を振り返れば、それは明らかです。
程度の差こそあれ、多くの人が尊厳死を容認し、安楽死も認めつつある中で、私の考えは今や少数派なのかもしれません。それでも私は、「自らの死を自分自身で決める権利はないし決められるようにすべきでもない」と考えます。だから私は、安楽死も尊厳死も一切認めない立場なのです。
「生きる権利」がないがしろにされる社会
実際に安楽死や尊厳死が法制化され、日常的に行われるようになった場合、難病や障害を抱えた特別な配慮を必要とする立場の人たちが家族や社会の負担とされ、安楽死を自ら選択させられるという可能性が大いにあります。
同調圧力が強い日本では、たとえ本人が死ぬのを嫌がっていても、「周囲の圧力によって無理やり同意させられる」可能性が高いですし、「自ら死を選択した人を、立派だと褒め称える」ような世論が醸成されていくかもしれません。
今後、日本は驚くほどの速さで、高齢化社会を迎えます。今は若く健康で、バリバリ働いている人でも、いずれ病気になったり、年老いたり、あるいは失業して無職になるなど弱い立場に置かれるかもしれないということを、もっと自覚するべきです。
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「死ぬ権利」ばかりに注目が集まり、「生きる権利」がないがしろにされる社会ほど、生きづらいものはありません。自己決定などしなくとも、すべての人はいずれ人は死んでいきます。
すでに述べたように、AIが大部分の労働を交替するような時代になれば、ほとんどの労働者は資本主義的な観点から見て「役立たずの人間」になるでしょう。繰り返しになりますが、人は「何かの役に立つ」ためや、「何らかの目的を達成する」ために生きているわけではないのです。