じじぃの「科学・地球_280_mRNAワクチンの衝撃・プロジェクト・ライトスピード」

Revolution in medicine - BioNTech, mRNA and the Covid-19 vaccine | DW Documentary

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=VMZtG0O9sbU

FT People of the Year: BioNTech’s Ugur Sahin and Ozlem Tureci

BioNTech aims to develop mRNA-based malaria vaccine

July 27, 2021 Reuters
BERLIN, July 26 (Reuters) - BioNTech (22UAy.DE) wants to build on its success in COVID-19 by developing the first vaccine for malaria based on mRNA technology and aims to start clinical testing by the end on 2022, in an attempt to eradicate the mosquito-borne illness.
https://www.reuters.com/business/healthcare-pharmaceuticals/biontech-aims-develop-mrna-based-malaria-vaccine-2021-07-26/

新型コロナワクチン開発~トルコ系ドイツ人夫婦の軌跡

さいたま記念病院
勉強の過程でファイザー社のワクチンを最初に作ったのがビオンテック(バイオンテック)というドイツのベンチャー企業だと知りました。その創始者は研究者であり医師でもあるウール・シャヒン氏とエズレム・テュレジ氏の夫妻。2人ともトルコ系ということに興味を覚えました。
内外の情報を集めてみました。経歴など細かな情報は主にドイツのSpiegel誌2021/1/2号から得ました(図はその表紙。タイトル:ビオンテックの救世主「ドイツはワクチンを十分に入手できるだろう」)。
夫のシャヒン氏はトルコ生まれ、4歳のときに母親と共に西ドイツに移住してきました。当時、父親は西ドイツ・ケルンに居住し自動車工場で働いていました。シャヒン氏はケルンのギムナジウム中高一貫のエリート校)を首席で卒業し、ケルン大学医学部に進学して医師となり、ザールラント大学病院に異動しました。
2歳下の妻のテュレジ氏は西ドイツで生まれました。父親はトルコ・イスタンブール出身の外科医で西ドイツに移住後、北方のニーダーザクセン州カトリック系病院に勤めていました。テュレジ氏はギムナジウム卒業後ザールラント大学医学部に進学して医師となりました。医学部最終学年のときにシャヒン氏と知り合ったとのことです。
http://www.saitamakinen-h.or.jp/news_head/%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3%E9%96%8B%E7%99%BA%E3%80%9C%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E7%B3%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E4%BA%BA%E5%A4%AB%E5%A9%A6/

『mRNAワクチンの衝撃』

ジョー・ミラー、エズレム・テュレジ、ウール・シャヒン/著、石井健、柴田さとみ、山田文、山田美明/訳 早川書房 2021年発行

第2章 プロジェクト・ライトスピード より

ラジオはシャヒン家にとって大切なものだった。ウールの父イフサンは、平日の夕方にケルンにあるフォード工場の製造ラインで骨の折れるシフトを終えて帰宅すると、いつも決まって小さなラジオに向かった。そして、あれこれとアンテナをいじっては、安っぽいスピーカーから響く雑音がくぐもったトルコの民族音楽に変わるところを探すのだった。1970年代初めに、トルコのラジオ放送局「アンカラ・ラジオ」から流れていたバラエティ番組。それは経済的チャンスを求めて故郷をあとにした一家にとって、イフサンの大事なレコード・コレクションと並んで故郷と自分たちをつなぐ数少ない貴重な絆の1つだった。
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2000年代後半、ドイツの規制当局であるパウル・エールリヒ研究所(PEI)は、意図せずにしてmRNA研究コミュニティの中枢に立つこととなる。ノーベル賞を受賞した免疫学者で化学療法の先駆者であるパウル・エールリヒの名を冠するこの研究所は、当時2つの新興企業を監督下に置いていた。2000年にドイツ南西部テュービンゲンで創設されたキュアバックと、その8年後にマインツで生まれたビオンテックである。両社はmRNA研究で世界をリードしており、自社技術を臨床試験で試したいと熱望していた。アメリカの規制当局に比べて慎重で保守的だと評されることの多いPEIではあるが、mRNAワクチンに関しては、規制の枠組みづくりに向けて協力的に動いてきた。mRNAを人体に投与できるだけの安全性を確保するため、長年にわたって2社と連携を重ねてきたのだ。PEIの研究員が、ウールやエズレムを含めたmRNAの先駆的科学者と連名で科学論文を共同執筆することさえあった。夫妻はPEI主催の「研究合宿」にも何度か参加している。これは実質的には、医学研究の最先端分野について詳細な議論が交わされるワークショップのようなものだった。このように、革新的研究者と規制当局は互いに力を合わせて、mRNAをはじめとする新しい技術について理解を深めてきたのだ。
治験を始めるために行政上の障壁は、ホームグランドであるドイツのほうが他の国々よりも険しい(そこには厳格かつ分権化された倫理委員会の存在も少なからず影響しているだろう)。だが、ビオンテックはかなりの数のがん治験をドイツ国内で実施してきた。これは同社がPEIとの間に築いてきた協力関係によるところが大きい。PEIはmRNAをめぐる事情をよく理解しており、この分野で急な進展があった場合も真剣に向き合ってくれるという信頼感があった。さらに、ウールは研究所の所長である生化学者のクラウス・チチュテクと対等な関係を築いていたのだ。
その週の火曜日、ビオンテックの取締役会を終え、ファイザーとの電話会議に入る前に、ウールはクラウスに直接電話をかけた。PEIの専門家パネルとの科学助言ミーティングを早急にセッティングするためだ。ワクチン開発戦略についてPEI側と意見をすり合わせ、ライトスピード・チームが今後数週間でクリアすべき安全性要件のチェックリストを策定することが目的だった。このチェックリストは、PEIが治験承認のために必要と考える要件をまとめたものとなる。
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PEIの専門家パネルの議論は、決して過熱することなく、常に法廷のような冷静さをたもったまま、もうすでに2時間続いていた。用意されていたポット入りのコーヒーと個包装の小さなクッキーはとっくに尽きている。ミーティングが終わりに近づくころ、PEI側は、ヨーロッパ、アメリカ、アジアの規制当局と連絡を取り合って状況を注視していくつもりだと述べた。そして、ビオンテックからの正式な治験開始申請はいつごろになりそうかと尋ねてきた。その質問に込められた先方の想定は、ウールとエズレムの心を一気に暗澹とさせるものだった。「年末ごろですかね?」と専門家たちは尋ねたのだ。
PEIがいまだに従来どおりのスケジュールでのワクチン開発を想定していることを、その質問ははっきりと示していた。専門家パネルは、ビオンテックがmRNAのクローニングと治験用材料の製造を加速できるとは思っていないのだ。したがって、規制上のハードルが制限要因になるとは考えていない。専門家たちにショックを与えないように、夫妻はさっと顔を見合わせて、控えめな返答を心がけることにした。エズレムは「詳しいスケジュールがもう少し見えてきたら」連絡します、と告げる。あえて伝えなかったのは、それが数ヵ月先ではなくおそらく数週間後になるだろうということだ。
一方のウールは、毒性試験のタイミングを調整するという希望をまだ捨てきれずにいた。提案したワクチン候補の安全性とコロナウイルスパンデミックがもたらす危険性についての詳細な分析を近いうちにお送りします、と居並ぶ人々に告げて、彼は会議室をあとにした。
子どものころ、父がラジオを直す最善の方法を理解するまでじっと待つことは、ウールにとってそう苦ではなかった。父本人が自力で正しい判断にたどり着くことが、唯一の効果的な説得の道なのだ。それに気づいてからは、実際に「父との関係も改善された」という。しかし、これだけ大きなものが懸かっているいま、そのアプローチは明らかに不十分だった。カール・ポパーはたしかに正しい。現実は――このケースでいえば、コロナウイルスの感染危機という現実は、いずれはPEIを含めたすべての人々に認識されることになるだろう。3月中旬には、世界の感染者は20万人を超える。そうしたなかで、一部のワクチン技術については通常の毒性試験を免除する国も出てくるだろう。しかし、そうなるころには、すでに世界はロックダウンに突入し、貴重な数週間が失われることになるのだ。ランゲンからマインツへと戻るタクシーの中で、ウールは「プランB」を始動した。

コリーナ」彼は呼びかけた。「毒性試験の手配に入ってくれ」